26.小説は誰のもの
文芸創作サロンの根幹を揺るがすようなアンナの発言に、サロン内は静まり返った。
途端に参加者の顔が曇り、不穏な空気が漂う。
アンナは言った。
「読者を意識して楽しませる小説は勿論素晴らしいものです。けれどそれを引き合いに出して、読まれない小説に価値がないとおっしゃるのは、私は乱暴な意見だと感じます」
青くなるアルブ伯爵とは対照的に、メリアスはにこにこと笑い出す。
アンナは続ける。
「文芸創作サロンは読者や売り上げを考えずに書ける分、もっと自由に発表していい場所だと思っていました。もし読者を増やす目的で行っているのであれば、私は恐らくこの作品を書き、この場に参加することは控えたでしょう。私の据えた主題がこのサロンの目標とするところとはズレていた、ということになりますから」
周囲の様子を見ながらメリアスが入って来た。
「小説に関する考え方は人それぞれですね。私は作品でご飯を食べなければならない身分なので、どうしても読者に受ける作品を作らなければなりません。一方このサロンではそういったことは目的ではないので、作品の方向性は自由です」
アンナはほっと息をついた。が、メリアスはこうも続ける。
「その上であえて私から言わせて欲しいのは、〝読者受け〟することと〝読ませる〟ということとは、分けて考えて欲しいということです。私から見て、確かにシェンブロ夫人の小説は〝読者受け〟しそうではありませんでした。しかし〝読ませる〟ことには成功しています。主題を据えて挑んでいるから話に筋が通っており、読者の気をそらさないのです」
全員熱心に聞き入っている。
「ですが受けを狙わない分、読者へのおあいそはほぼありませんね。結果、それを読み手が好きと取るか嫌いと取るかで、今回のように評価が大きく分かれてしまいます。私はこういう作品、好きですよ。ふんわり懐かしくてきらきらしていて。こういう作品でご飯が食べられたらな~って思います。でも、誰かに酷評されがちであるということも皆さん頭に置いておくといいかもしれません。酷評で筆を折る方も多いです。あえて危険な道を選ぶ必要はないのではないでしょうか。けれど、それに耐えられる鋼の心の作者のみが手を出せる禁断の果実であることは確かです」
エヴァンは自分が前者のタイプであることを悟る。多くの商業作家が〝読者受け〟を目指していることであろう。
しかし後者のような小説を書ける人間を、心の奥深くで羨んでいることも確かなのだ。
アンナは自分の心のおもむくまま、読み手を余り意識せず、どこか懐かしい小説を書いた。
自分の心の中から取り出した、ぴかぴか光るものだけに従順に。
「でも、それってただの自己満足ではありませんか?」
カルネ夫人が尋ね、メリアスは唸りながらも応える。
「そうですね……でも、まずは自己満足を書くというのでいいと思うんです。みなさん陥りがちな罠なのですが、自分が好きでもないものを〝読者受け〟しようとして無理に書き過ぎてしまうんですよ。これ、結局は長く続けられないです。自己満足を積み重ねてからでも〝読者受け〟は目指せますので、自らの趣味趣向を書き散らす経験をまずしておくべきですね」
「……読まれないとしても?」
「うーん、みなさん読まれないことにどうしても気が行ってしまうのね……ええっと、何て言ったらいいかしら。ご婦人方はピアノやダンスの練習をしたことはありますか?」
女性陣はうんうんと頷く。
「自己満足は、たくさん練習するための魔法のツールなんです。それがあるかどうかで、長く練習出来るかどうかが決まって来ます。そして練習を積み重ねただけ、小説も確実に上手になっていくわけです。文学サロンは発表の場ではありますが〝読者受け〟するかどうかではなく〝前回と比べてどうか〟という点を見るべきと私は考えます。成果を得る場と言うより、成長の場と言うのですかね。評価されることよりもまずは練習、自己満足。そこから創作を始めるのは、何ら悪いことではありません」
議論の場がざわつく。恐らく全員にとって新しい視点だったのだろう。
エヴァンは周囲を見渡す。ペンドリー出版のみならず、他出版社の編集者もその議論に熱視線を送っていた。
その視線の先には、アンナがいた。
「ではシェンブロ夫人、ありがとうございました。みなさん、新しい視点を得られましたね」
アンナはようやく我に返って頬を赤くし、首を垂れる。まだ腹に据えかねているらしいアルブ伯爵は、軽く舌打ちをした。
エヴァンは伯爵と見覚えのある編集者を何人か、交互に見ながら気がついた。
このサロンは恐らくスカウトの場も兼ねている。だからこそ、どの作家志望も妙に議論に熱量があるのだ。サロンユーザーが議論でやりこめようとして来るのも、あわよくば優位性を得ようと言う魂胆なのだろう。
(下らない)
エヴァンは心の中で毒づいた。
(議論でつっかかる暇があるなら、己の作品を良くする努力をしろよ)
批評家気取りの割に自分の作品に手をかけない〝偽作家〟の何と多いことか。
(こういう奴ほど取り繕うことばかりに必死で、自作を深く掘り下げない)
そう考え、ふっとエヴァンは笑った。
(……ちょっと前までの私も、そうだったんだ)
その後も様々な作品での議論を続け、文学サロンは盛況の内に終わった。
「とっても楽しかったわね、エヴァン」
帰り際、アンナが飛びついて来る。疲れたエヴァンがそのままサロンの参加者に頭を下げて帰ろうと目論んでいると、
「ちょっとすみません」
わらわらと、各出版社の編集者がこちらに向かって来た。
やはり、とエヴァンは思う。
「な、何でしょうか……」
アンナがおっかなびっくりしていると、編集者らは彼女に詰め寄り口々に言った。
「少しあなたとお話が」
「あの短編をもう少し引き延ばすことは可能ですか?」
「旦那様はあなたの創作に理解を示されておりますか?」
アンナはエヴァンを見上げる。
何もかも予想のついていたエヴァンは、澄んだ瞳をして頷いた。