23.アンナの小説
エヴァンは作家活動はしていたものの素性は隠していたため、文学サロンなどというものには無縁であった。彼の表向きの肩書は植物学者だ。
屋敷に帰った彼は、自室に通した妻に問う。
「アンナはこういったものに参加したことはあるか?」
彼女はベッドに腰かけながら言った。
「かつて何度か出入りしたこともありましたが……その当時は思想家が跋扈しており近づき難かったのです」
「思想家か。恋愛小説家には敷居が高すぎるな」
「でもこのカードには〝文芸創作〟のサロンと明記されているわ」
「趣味人の集まりか?」
「きっとそうよ。現役作家を講師に招いて作品にアドバイスをしてくれるんですって」
「ブライアンは君に小説を書いて欲しそうだったが……」
エヴァンが妻に目を向けると、彼女はすっかり遠くを見るように何やら思案していた。
「作家になりたいか?アンナ」
アンナはその言葉に、おっかなびっくりこちらを振り仰いだ。
「そ、そんな。そんなことは……」
「遠慮しなくていい。たくさん読む人間は大抵書けるはずだ」
「でも……」
「私も、君の書いたものを読んでみたい」
隣に腰かけて来たエヴァンを眺め、アンナは目を見開いた。
「本当?エヴァン。私、あなたは妻が悪目立ちするのを嫌がるとばかり」
「やはりそうか……私は、君もその内書くんじゃないかって思っていたんだ」
「エヴァン……」
「私の隣にいるからには、やりたいことをやってくれ。君に何かを我慢させるのは本意ではない」
アンナは微笑んだ。
「あなたほど第一印象と内面がかけ離れている男性はいないわね」
「ああ。何せ中身は乙女だからな」
「ふふっ。本当にそう。さっき読んだ最新刊も、本当に〝オルムステッド女史〟の作品だったわ」
アンナは夫にしなだれかかる。
「……書いてみようかしら。私、本心では、ちょっとあなたが羨ましかったの」
エヴァンは頷いた。彼女は続ける。
「自分の中の見えない世界を取り出して、磨いて光らせるなんて奇跡よ。それを誰かが受け取って、喜んだり悲しんだりするのも奇跡よね。更にそれを売る人がいて、売る場所があって。それが出来るのは一握りの人なの。頭では分かっているんだけど、あなたを作家だと認知してからその羨望は日に日に強くなって──」
エヴァンは思う。
その羨望を感じた瞬間から、人は小説家を目指すのだと。
「とりあえず、このサロンに参加したいなら書いてみるといい。書かなければ何も始まらないからな」
アンナは力強く頷いた。
「作家先生にそう言ってもらうと、背中を押されるようよ」
「書いたら一度読ませてくれ」
「自分の作品を夫に見られるなんて、何だか恥ずかしいわ」
「その顔、よく見せて」
「もう……すぐにからかうんだから」
二人は身を寄せ合ってキスをする。
小さな約束。
いつの間にか小説は彼らを隔てるものではなく、二人を結び付けるものに変わって行く。
一週間後。
アンナが初めて書き上げた短編は、幼馴染がすれ違いの末結ばれる、海辺の片田舎を舞台にした素朴なストーリーだった。
「どうかしら。何のひねりもない作品なんだけど」
読みながらエヴァンは思う。
〝藤の庭〟の影響があるのは否めない。しかしその素朴さ自体は、彼女が独自に獲得したもののように思った。
「いいんじゃないか?初めてにしては上出来だ。一週間で一万字なんて、普通は書けないものだからな」
「そうなの?」
「アンナは筆が止まらないタイプなのか」
「そうね……あまり悩まないで書いてるわね」
苦悩しながら絞り出して書いているエヴァンとは対照的だ。
「だからか。引っかかりのない文章なのは」
筆に勢いがある。読ませる文章というよりは、流れるような文章。しかしそれをさらりと書ける作家は案外いない。どの作家も爪痕を残そうとして文章やストーリーが情報過多になりがちな昨今、彼女は珍しいタイプの小説を書いている。
「やっぱり引っかかりがないと駄目かしら?」
「いや、これはこれでいい。最近は華美な文章が流行っているから、逆にこのシンプルさは長所だよ」
「あなたにそう言ってもらえると安心だわ」
「ストーリーはありきたりだが、上手くまとまっている」
「……夫の欲目じゃない?」
「それもあるが、何て言うのだろう。懐かしい感じがするな」
「私はそういう話が好きなの。誰もが持っている部分に迫るようなお話が」
エヴァンは微笑んだ。
「そういった哲学があるのもいい。本来、それはずっと持ち続けなければならないものだ。早速サロンに持って行こう」
「あー、大丈夫かしら?緊張するわ」
かつて哲学を捨て去ってしまった自分が、彼女の創作姿勢を見せられて再びそれを探し始めている。今回のサロンで、何かが得られそうだとエヴァンは思った。