22.先生らしさ
二週間後。
街中のペンドリー出版にアンナとエヴァンは馬車で乗りつけた。
相変わらず喧噪で埃っぽい都会の空気に、二人は少し息を止める。
「よし、行こう」
使用人が図鑑の原稿と小説の原稿を持ってついて来る。
すぐにブライアンが飛んで来て、二人を応接間へと案内した。
挨拶もそこそこにブライアンは原稿チェックに入る。
静かに読み込むブライアンをじっと見つめ、読了を待つ。
ブライアンは静かに顔を上げた。
「……ちょっと、驚きました。これは凄い変化だ。もはや別の小説ですなぁ」
エヴァンは頷く。アンナは隣で目を輝かせた。
「良かったわね、エヴァン」
エヴァンは今までの努力が報われたと感じた。しかしブライアンが次に続けた言葉で呆然とする。
「しかし、いきなりこうだと、読者は驚いてしまいます」
ふと応接間の空気が張り詰めた。
「ブライアン。それはどういう……」
「いや、素晴らしいんですよ、これはこれで。過去の掘り起こし、二人の愛が深まる、結構なことです。しかし──これで一巻使うのは長すぎますね。大体、過去編は余り読者から好まれないのですよ、ストーリーが先に進まないですのでね。オルムステッド先生の作品はテンポの良さが肝ですから、これだと今までのテンポで読んでいた読者は冗長に感じてしまいます。もう少し心情を端的に説明するか、ストーリーをさくさく進める感じでないと、今度は別の読者層が離れかねません」
ブライアンは原稿を突き返す。エヴァンが黙っていると、アンナがそれを取り上げた。
「アンナ……」
「いいでしょう?私にも読ませて」
今度はアンナが原稿を読み始めた。ブライアンは肩をすくめると、今度は図鑑の原稿を受け取る。
「おお、これで図鑑の方は全て揃いましたね」
「文章のチェックは任せた。一応こちらでも目は通したのだが」
「これはこれで、問い合わせの多い図鑑でしたからね。昨今の巷の園芸熱はなかなかに凄いですから」
と、その時。
図鑑原稿の間から、ひらりと一枚の紙が落ちて来た。ブライアンはそれを拾い上げる。
「……これは?」
エヴァンも覗き込んだ。
「ああ、これは気分に任せて描いた落書きだよ。クリスティーヌとレイモンドの肖像だ」
ブライアンの目がきらりと光る。
「素晴らしい絵ですね。公爵はこのような人物画も描けるのですか」
「まあ……大体のものは描ける」
「相談なのですが、これから刷る予定の〝令嬢クリスティーヌの婚姻〟の中表紙に、このイラストを載せませんか?」
エヴァンは目を丸くした。
「何だと?今更絵をつけるのか?」
「はい。こちらとしても〝売るための努力〟は惜しみたくありません」
「ふーむ……絵ごときで売り上げが伸びるのか?にわかには信じ難いな……こっちは中身で勝負したい」
「最近別の出版社で、挿絵に力を入れているところがあるんですよ。そこが急成長しているんです。やってみて損はないと思いますが」
「ふーん。確かにそんなことで違う読者がつくなら安いものかもな。私が描く限り、イラストの依頼料も発生しないわけだし」
「そうですそうです。とりあえず、やれることはやってみた方がいい」
と、その時。
ぐすっ、ぐすっと部屋の隅にさざめく泣き声。
アンナが原稿を読みながら、涙を流していた。男二人はそれを見てぽかんと口を開ける。
「エヴァン……これ、とてもいいわ。今まで態度の軽かったレイモンドは、戦場でこんなに苦労していたのね。今までの彼のひとりよがりは、全部この時の反動だったわけね……」
ブライアンが腕組みをして呟く。
「身内のひいき目か、女性ならではの感性か……」
エヴァンは涙を見せるアンナに、静かに視線を落としていた。
小説を読んでいる最中の読者の反応を生で見たのは、初めてかもしれない。
「どちらにせよ、私には嬉しい反応だ」
エヴァンの言葉に、ブライアンは顔を上げた。
「いつの間にか、あなたは奥様に小説家であることをお伝えになっていたのですね」
「ああ。自分から言った」
「私はあなたのことですから、作家であることを隠すのだとばかり」
「そう思ったことも勿論あった。しかし、途中で彼女を裏切りたくなくなったんだ」
ブライアンは信じられないものを見るような目でエヴァンを眺めた。
「そうですか。どうりで……少しお顔が変わったような気がしました」
「同じことを妻にも言われた」
「しかしその変化は読者には分からないのです。文章では、なるべく徐々に変えて行きましょう。先程ああ言いましたが、今後の物語の方向性としては良いのですから」
「……そうか」
「やはり読みが当たりました。あなたは奥様を迎えてから、いい方に変わったような気がします」
エヴァンは微笑んだ。
「……別の女性だったら、こうは行かなかったかもしれないな」
「何と……!あのエヴァン様がノロケですかな!?」
「やめろブライアン。今更浮いた台詞が恥ずかしくなって来た……いや、今回この小説が良くなったのは、彼女の助言のおかげで」
エヴァンが彼女の表情を覗き込むと、アンナは涙を拭きながら笑った。
ブライアンはそれをじっと観察し、難しい顔で何やら考え始めている。
「ほう。助言……ですか」
「ああ。自分の分からない女心を教えてもらったり、何かと励ましをもらったり」
「素晴らしいご関係ですね。奥様も小説をお書きになるのですか?」
アンナは首を横に振った。
「まさか。私は読むばかりです」
「そうですか。勿体ないことですね」
アンナとエヴァンはきょとんとブライアンを見つめる。
「ブライアン。それはどういう……」
「いや……作家をここまで変えることは、どんな編集者にだって難しいんですよ。それを奥様は出会ってひと月でやってのけた。ある意味一流の編集者だ。で、ですね。一流の編集者の中には一定数、一流の作家が紛れていることがあるんです」
アンナは彼の言いたいことが分かって、すぐに怖気づいた。
「む、無理です。書くなんて……!」
「まあ、こちらも無理にとは言いませんよ。でも心に留めておいてください。今、ペンドリー出版では女性向けを事業拡大しているんですよ。小説をたしなむ女性が昨今増えて来ているんです」
「……!」
「心強い伴侶を双方得ているのですから、お互いに高め合うのもいいのでは……ああ、そうそう。もしよろしければ」
ブライアンはポケットからカードを取り出した。
「文学サロンのご案内です。貴族の文芸創作の場でして、私も出入りしております。気が向いたらエヴァン様と一緒にいかがですか?」
アンナとエヴァンはそれぞれカードを受け取り、互いに顔を見合わせた。