20.作家の挑戦
退散したエヴァンはふらりと書斎のデスクに座る。
エヴァンは今まで書いて来た〝令嬢クリスティーヌの婚姻・5〟を眺め、その原稿をゴミ箱に投げ入れる。
「……再びイチから書き直そう」
切り張りは〝積み重ね〟にはならなかった。
それは全部借りて来たものだからだ。
エヴァンは今、はっきりと言える。
「現状、この小説に足りないのは〝積み重ね〟だ」
妻のアンナは、大切なことを色々と教えてくれた。アンナとの生活や関係はそういったことの〝積み重ね〟であった。小さなことが積み重なって、互いの関係や思いが深まって行く。
クリスティーヌとレイモンドの〝積み重ね〟を描かなければ、その後どんな話の展開を描いても、薄っぺらい、空疎な話にしかならないであろう。
エヴァンはようやくそのことに気づいたのだった。
「心情あっての展開、か……」
今更心情描写を厚くしても、読者には違和感があるかもしれない。
それでもエヴァンは挑戦したかった。
売り上げなど度外視で、よりよいものが書けるように挑戦したいし、精進したかった。
作家であることにしがみつくよりも、自分の限界を見てみたい。
「……4巻で日常回を書きたくなったのは、深層心理でそういった心に気づいていたからなんだろう」
きっとそうに違いなかった。底の浅さが露呈したものの、大切なことに気づいてはいたらしい。
エヴァンは目を閉じる。
レイモンドにとって、クリスティーヌはどういう存在なのだろう。
そしてクリスティーヌにとって、レイモンドは……
その時、まぶたの裏に浮かんで来たのは、アンナのことだった。
「……アンナ」
エヴァンは思いついたように立ち上がり書斎を出る。
まだ彼女は怒っているようで、扉を開けてくれない。
彼は妻の部屋の前に立ち、声をかけた。
「アンナ」
足音がする。
思いがけず、扉はすぐに開いた。
アンナがうつむいたまま物も言わずに抱きついて来て、エヴァンは慌てた。
「……どうした!?」
「エヴァン……私今、どうしたらいいか分からないのよ」
「……入るぞ」
エヴァンは妻を抱き寄せたまま部屋に入り、共にベッドに座る。アンナは静かに泣き始めた。
彼は呆然とし、急に現状に怯え始める。嫉妬心とは、ここまで心をかき乱すものなのだろうか。
「すまない、アンナ。もうメリアス先生が来ても会うのを断るから」
「違う、そうじゃないの」
「?」
「私も、こんな気持ちになるのは初めてなの。だから、どうしたらいいか……」
エヴァンは静かに驚いていた。今まで彼女は足りない夫に色々と教えてくれる立場だったが、そんな彼女にも分からない心情があるのだ。
互いに恋愛に関しては全くの初心者であるということを、彼は失念していた。
「アンナも、自分を見失うことがあるんだな」
「そうよ。私だって、異性を好きになるのは初めてなんだから」
「そうか……」
「こんな偏屈夫が嫉妬心を掻き立てて来るなんて、思いもしなかった」
「……」
エヴァンは黙ってアンナを抱き締める。
「……かわいい」
自分の口から素直な言葉が出てしまい、エヴァンは自分でも驚いた。
胸の中のアンナは思わず吹き出す。
「ふふっ……ちょっと、こっちは深刻なのに笑わせないでよ」
「そんなことでいちいち深刻になってる妻は、かわいいに決まってる」
「……エヴァン」
アンナは少し鼻をすする。
「そんな風に思ってくれてよかった。面倒な女だと思われたらどうしようかと……」
「そんなことは思わない。こっちの方が絶対に面倒な男なのだから」
「あら……自覚がおありだったのね」
エヴァンは面食らい、アンナはカラカラと笑った。
「ねえ、エヴァン」
「何だ」
「今から、一緒に寝ても……」
空が薄暗くなって来ている。エヴァンはごくりとのどを鳴らした。
「まだ早い気が……」
「もう、何を言ってるの?実際は遅すぎるくらいよ。私たち、結婚してそろそろひと月よ」
エヴァンは緊張しながらも、どこか力が抜ける。
「……アンナが嫌じゃなければ」
自身の体に彼の圧力がぐっとかかる瞬間を、アンナは初めて体感する。
「嫌じゃないわ」
「君に悪いことをしでかしそうな気がする」
「……多分、今あなたの考えていることは、ちっとも悪いことじゃないと思う」
「そうか……」
「ねえ、どうしてそんなにいつも何かに怯えているの?エヴァン」
「君に嫌われるかもしれない」
「そう言ってる割に……この手は何なの?」
アンナは遠慮がちに体重をかけられ、幸福そうに微笑む。
「お互いに好きだから大丈夫よ、エヴァン」
真っすぐな視線を向けられた後、いつもよりぎこちないキスをされ、アンナはどきどきと胸を鳴らす。
全てが互いに探り探りで、何もかもがくすぐったい行為。
(この人って、全部が〝意外な〟男の人だわ)
見た目と違い、思ったよりおくてで小心者で──
そう思ったりもしたが、何かが破裂するように荒々しい時もあった。
全てが予想の通りとは行かなかったが、アンナは彼とのことを済ませて安心した。
アンナは、ようやく自分が彼のれっきとした妻になれた気がした。
夕餉までまだ時間がある。アンナは力尽きたようにまどろむエヴァンの頬を触る。
その手をぎゅうっと掴まれ、アンナはなぜか彼を哀れに思った。
「エヴァン。私、一生あなたと一緒にいるから大丈夫よ」
なぜかそう声をかけずにはいられなかった。エヴァンが口を開く。
「……あんまり大切にし過ぎると」
アンナは彼の言わんとすることの予想がついて、目をこする。
「みんなどこかへ行ってしまいそうな気がする」
「そんなことないわよ……なぜいつもそんな悲しいことばかり考えているの?」
彼がなぜ作家に憧れ、切り張りをしてでも作家にならなければならなかったのか、その理由をアンナは噛みしめつつあった。
彼を救うものは、小説以外、現実に存在しなかったのだ。
だから小説に固執した。
そうして虚勢を張り続けなければならなかった彼だったが、信頼できる伴侶を得て、ようやく心の鎧を脱いだのだ。
アンナはそんなエヴァンを目の当たりにし、鎧を脱ぎ捨てた彼の小説をいちファンとして読みたいと望んだ。
「ようやく、あなたも人を好きになれたの」
アンナはエヴァンの首筋に絡みついた。
「そろそろ、自分を好きになってもいいんじゃないかしら。そうしたら、もっといいものが書けるわ」
エヴァンは体を離すと、どこか白けた顔で呟いた。
「……こんないい時に、編集者みたいなこと言うなよ」
アンナはこらえきれず、くすくすと笑った。