19.嫉妬と駆け引き
メリアスを見送ってから、エヴァンは慌ててアンナの寝室に向かう。
「……アンナ」
入って来た夫の呼びかけに彼女は顔だけ布団から出すと、口を尖らせて言った。
「……メリアス先生と随分楽しそうに話してたじゃない、エヴァン」
エヴァンは冷や汗をかいた。
「そんなことはない。来客に失礼がないようにしたまでだ」
「それに、刊行前の花のスケッチをメリアス先生に見せてたじゃない?」
「……あの状況で、見せないのもおかしいだろ」
「原本を見られるのは、この世界であなたと私だけだと思ってたの」
「はぁ?」
「あのスケッチは、私たち二人だけの世界にあると思ってたのよ」
何やら難しい感情が、彼女の中で渦巻いているらしい。
エヴァンはベッドに腰かけ、妻の髪を撫でる。
「心配するな。私はアンナだけを愛しているのだから」
「知らない、エヴァンなんか」
「……!」
「メリアス先生にヘラヘラしちゃって」
「!!」
「鉄面皮エヴァンが笑いかけるのは私だけって思ってたのに……」
「そんなことないだろ。アンナが見ていないだけで、仕事場で笑うことぐらいあるぞ」
「しかも創作の相談まで……それも、私の仕事だったのに」
「作家と妻に聞きたいことは違うだろ」
「ふんっ」
打つ手なし。
エヴァンはため息をついた。
「そうか。君は私をそんなに信用出来ないのか……」
成す術なく、彼は退散する。アンナはその言葉にどきりとして上半身を起こしたが、扉は閉められてしまった。
エヴァンは扉に背をついて思う。
(……少し、時間を置こう)
あちらが心を閉ざしている限り、こじ開けるといろいろこじれそうだ。
それにエヴァンは今日、どうしようもない葛藤を抱えてしまった。
寝室の前に、執事のコリンがやって来た。
「……コリン」
「もう、出て来てよろしいのですか?」
エヴァンは熟考する。
それから、どこか神妙な瞳を老執事に向けた。
「なあ、コリン」
「何でしょう」
「自分が抱える自身への信頼のなさは、一体どうやったら解消するのだろうか」
コリンは珍しく、皺のある目を見開いた。
「……エヴァン様……」
「私は今日気づいたんだ。アンナ同様、私も私自身をどうやら信頼していない」
コリンも何か彼の中の闇に足を突っ込んだらしく、再び目を伏せる。
「自分への信用、つまり自信がないのですね」
「……そういうことになるな」
「さしでがましいと思い、ずっとお伝え出来ませんでしたが……私から見ましても、先代のエヴァン様への仕打ちは常軌を逸しておられました。あの毎日が、エヴァン様から自信を奪ってしまったように思います」
「……そうか」
「だからこそ、先日アンナ様をお迎え出来たことが、私としてはとても心強かったのですけれども」
男二人は物言わぬ扉を眺めた。
「なぜか嫌われてしまった。取りつく島もない」
コリンはそれを聞くと、くすりと笑った。
「さてはアンナ様はあなたに妬いておられますね」
「……焼く?」
「別の女性と楽しそうにしておられたので、奥様はあなたとメリアス様に嫉妬していらっしゃるのです」
「……何!?」
エヴァンはずり落ちそうになった眼鏡を慌てて上げた。
「これが嫉妬?私は彼女に信用されていないとばかり」
「近いものはあるかもしれません。しかし、本当に信用されていなければ失望もされないでしょう」
「うーん……」
エヴァンは唸る。
「難しいな。嫉妬されたのをなだめるのは」
「あちらの気が済むのを待つしかないのでは」
「コリンもそう思うか?」
と、その時。
ぎいと音を立てて扉が開かれる。
扉の向こうで、アンナが真っ赤になってこちらを覗いていた。
「エヴァン、私……そんなつもりじゃなかったの」
アンナは先程とは打って変わって、泣き出しそうな顔をしている。
「あなたを嫌いになったんじゃない。信用してないわけでもない」
コリンが色々と察して去り、エヴァンは彼女に駆け寄った。
「アンナ」
「ごめんなさい。そんなにあなたを落ち込ませるとは思っていなくて」
「気分は悪くないか?」
「もう大丈夫。少しあなたを困らせたかったの」
エヴァンは首を傾げた。
「ん……?なぜ困らせようと思ったんだ?」
「だ、だって」
アンナは恥ずかしさに両の手で顔を覆った。
「ずっと……私のことだけ考えていて欲しかったから」
エヴァンの中で、再びあのスイッチが入った。
「困らせて、自分のことだけ考えさせる……?そんな高等テクニックがあったか……!」
「エヴァン?」
「その発想はなかったぞ。確かにそうだな。私は君のことしか考えられなくなった。しかも、何かしてあげなければという使命感まで引き出している……!」
「エヴァン?」
「ただ喧嘩して仲直りしているのとはわけが違う。よく考えられた仕掛けだ。これが恋の駆け引きというのだな」
「エヴァン?」
「実際にやられてみて分かった。何とか次の小説に組み込めないだろうか」
ばたん、と扉が再び閉められた。
「あれ?アンナ……」
戸を引くが、鍵がかけられていた。
「しばらく反省しなさい!」
戸の向こうで声がし、エヴァンは再び途方に暮れた。