16.好き避けの妙
「びっくりしたわ。エヴァンの顔が急に真っ赤になったから」
アンナは椅子を引いて来ると、エヴァンのそばに腰掛けた。
エヴァンはアンナをじいっと見つめるが、目が合いそうになると目をそらす。
「駄目だ……なぜかアンナの顔をまともに見られない。話すのも怖い」
アンナは勝ち誇ったように、わざと彼の顔を覗き込む。
「きっとそれは、〝好き避け〟ね」
エヴァンは乙女のように顔を両の手で覆った。
「これが〝好き避け〟!?恋愛小説でままある〝好きだから避けちゃう〟って言うのはこれのことか……!?」
「まさにそうよ。好きになったから相手の前で失敗したくない。好きになったから顔を見て上手く喋れない。好きすぎてむしろ相手を嫌いになろうと努力する──という心情の総称ね」
エヴァンは跳ねるように顔を上げた。
「アンナ。君は私の心が読めるのか?」
アンナはくすくすと笑う。
「そういうものよ。私には〝好き避け〟する心理はよく分からないのだけど……」
「私には非常によく分かる。まさに今君が言った通りだ」
「じゃあ私はこれからエヴァンに避けられるの?辛いわね」
「ぐっ……」
エヴァンは急にしどろもどろになる。どうしたらいいのか分からなくなっているらしい。
「ごめん、アンナ……こんな気分になるのは初めてなんだ」
「きっとすぐに慣れるわよ。毎日二人、同じ家に暮らしているんだもの」
「恋だの愛だのは、もっと浮かれているものだと思っていた。実際は、めちゃくちゃしんどい」
「ふふっ」
「笑いごとじゃないぞ。いいか?息をするのも辛くなるくらい……」
するとアンナが立ち上がり、ベッドに上がり込んで来る。
「急に来るな!」
「何で?だって今のエヴァン、かわいいんだもの。もっと近くで見たくなって当然でしょ」
「だ、駄目だって……」
ずい、とアンナに迫られ、エヴァンは口をぱくぱくさせた。
「いい?エヴァン。このシチュエーションに見覚えはないかしら?」
エヴァンは目を見開いた。
「〝令嬢クリスティーヌの婚姻・4〟で主人公がレイモンドに迫られた場面……!」
「ご名答。朽ちた小屋を見つけて、その夜──という場面でのレイモンドをやらせてもらったの」
「!」
「クリスティーヌ役のあなたはどう思った?」
エヴァンは考え込む。
「嬉しいが、不安だ。でも来て欲しい。しかしながらあんまり簡単に受け入れると、軽い奴と見なされてしまうのではないかと……そういう迷いも生じた」
「そうなのね?では作品の中では、クリスティーヌはどう言っていたかしら」
エヴァンは落ち込んだ。
「くそっ。嬉しくて飛びついていやがった……!」
「あそこ、ちょっと違和感があったわね。読者としては、もっと恥じらって欲しかったわ」
「あの時は、話を先に進めることばかりに重きを置いていた。盲点だった……」
「オルムステッド先生の作品に足りないのは、そこなのよ」
アンナはベッドに膝をついて熱弁した。
「行動と行動の間でキャラクターの心情が理解出来ないと、読者は置いて行かれたような気分になってしまうの。それが続くと心の整理がつかなくなって、先を読みたくなくなってしまう。四巻で、ついにみんな追いつけなくなってしまったのよ。日常回だから切られたんじゃない。キャラクターの心情を理解出来なくなった結果、みんなはこれ以上読むのをやめようと思ったの。無論、私も」
エヴァンの顔色が変わる。
「なっ……アンナはもう、〝令嬢クリスティーヌの婚姻〟を読まないのか!?」
「そうねぇ……」
アンナはまなじりに生温かい微笑を湛えた。
「もっとキャラクターを理解出来るようにして、先の展開が面白くなれば読むわ」
「なん……だと……?」
「ごめんねエヴァン。夫がオルムステッド先生だって分かった途端、逆に読まなくてもいいかな、ってなったの。だってあなたがいる限り、続刊打ち切りになっても先が読めるわけだし」
「!!」
「終わったら終わったで、まあ見るかな、って感じ」
「売り上げなければ続刊が出ないぞ!」
「でもあなたがいるから──頼めば見られるし」
「ぐぬぬぬ……!」
エヴァンは頭を抱えた。
「……アンナ」
「はい」
「私は君に続刊を読んでもらいたい」
エヴァンはようやくアンナを見据えた。
アンナは微笑む。
「必ず続刊を出そう。だから、ラストまで読んで欲しいんだ」
「いいわよ。頑張ってね」
「なぁ……アンナ。こっちが愛し始めたら、引くようになったのはなぜだ?」
「まあ、それも一度ご自身で考えてみてはいかがかしら。〝駆け引き〟という言葉や〝押して駄目なら引く〟という言葉がどういうことなのか、一度体験してみたらいいと思うの」
「……」
エヴァンは腕を前に組んで考え込んだ。
「……事象の切り張りが、いかに空しかったか考えさせられるな」
「想像力を蓄えましょう。あなたなら、きっと書けるわ。素敵な恋愛小説を──」
「ああ……それはそうと、だな」
「はい?」
「早くベッドから下りてくれないか……邪な気分になって頭が回らないから」
「あら、そう?」
アンナはようやくいつものエヴァンが戻って来たことに安心して、部屋を出た。