15.愛の始まり
人を愛することを知らずに恋愛小説家となってしまったエヴァン。
彼は帰りの馬車にアンナと揺られながら、肩に身を預けて来る彼女をじっと眺めた。
柔らかく、温かい彼女の体。
彼はじっくり妻を見下ろして、妙な気分になった。
寄宿舎は男子校。学者の世界も男社会。彼が女性に触れたのは、アンナが初めてだ。
〝私のこと、好き?〟
そう彼女に問われるたびに、じれったいような、温かいような気分になる。
(この感覚が、きっと恋愛感情だ)
好きだよ、と必ず返されることを期待して問うて来るのだろう。夫は拒否しないという信頼感があるようだ。
笑顔にしたいとか、失いたくないとか、そのような心情が芽生えて来るのが、愛するということだ。
(アンナは、欠落した私の心のピースを探し出してくれた)
それはやはり、彼女が彼に足りない部分を補おうとしてくれた結果なのだろう。
エヴァンはそれに気づき、アンナを心から大切だと思えるようになった。
屋敷に帰ると、エヴァンはどこかいつもの景色が違うような気がした。
いつもは見過ごしているような細部が、詳細に目に飛び込んでくる。
「……どうかしたの?エヴァン」
アンナに尋ねられ、彼は呆然と辺りを見回した。
「……いや。何となく」
「疲れたのよきっと。秘密の暴露もあったし」
景色が妙だ。
どの瞬間も見逃したくない。景色の彩度が上がり、いつもより時間がゆっくりと流れている気すらする。
エヴァンの体の奥底から、急に羞恥心が沸き起こる。
(まさかこれが……恋!?)
「ねえ、エヴァン」
アンナがこちらの腕にからみついて来て言う。
「その……食事まで、私の寝室で過ごさない?」
エヴァンは首まで真っ赤になった。
「なっ、何を言うんだアンナ!」
「へっ?私、そんなに変なこと言った?」
「無理」
「どうして?だって夫婦じゃない。別に……」
「無理無理無理」
「エヴァンったら。この前は普通に私の寝室に入って来てたじゃない」
「無理だ!急に恥ずかしくなって来た……」
アンナは困惑した。
「……そ、そうなの?」
騒ぎを聞きつけて、コリンが走り寄って来る。
「エヴァン様、顔が真っ赤です!一体どうされましたか?」
「いや、別に……」
「エヴァン様!大変です、熱がございます!」
「ち、違……」
「さあ、すぐに寝室へ行きましょう」
「違うんだ、コリン……」
エヴァンは使用人たちに外堀を埋められ、ずるずると寝室へ引っ張られて行く。
アンナは呆然と集団を見送ってから、遅れて顔を赤くした。
寝室に押し込められたエヴァンは、ベッドの上でため息をつく。
「だから熱なんかないって……」
しばし周囲を眺めてから彼は覚悟を決めるようにひと息吸って、枕元にある「令嬢クリスティーヌの婚姻」を一巻から開いた。
彼の嫌な予感は的中した。
本作のヒーローに据えた、レイモンドという男。
「……何だコイツ」
読めば読むほどにこの男の軽率さが鼻につく。絶世の美男子だか何だか知らないが、地位が低い癖に令嬢のクリスティーヌには妙に上から目線だし、彼女の親には弁を尽くさず厭われ、彼女を得ようと軽口を叩いては失敗しクリスティーヌに尻ぬぐいさせている。
戦時にその剣の腕前で彼女を助け出したところまでは良かったが、二人で小屋に引きこもってからはクリスティーヌに家事をさせて知らんぷり。しかも戦いが自分の本分とか抜かしやがる。まとめると、レイモンドは彼女をすごいすごいと誉めそやし、色々やって貰っているだけの男である。
エヴァンは目を閉じて天を仰ぎ、もう一回言った。
「……何だコイツ」
エヴァンはまさか、自分が書いた小説でここまでヒーローに失望する日が来るとは思っていなかった。先日受け取ったファンレターでの苦言が、今になってぐさぐさと刺さる。
「……戦時でしか役に立たない男なんだ、こいつは」
くっきりと問題点が浮かび上がる。
それは恐らくエヴァンがアンナを愛するようになったことで、見つかった粗だ。好きになった女性に自分が何をしたくなるのか、ようやく分かったから見出せた問題点だ。
「レイモンドに挽回の機会をしっかり与えないと駄目だ。じゃないとこの物語は、レイモンドが好き勝手してるくせにラッキーに見舞われたというだけの話になってしまう」
エヴァンは自作を前に、脂汗をかきながら腕を前に組む。
我ながら稚拙な作品過ぎて恥ずかしくなる。
〝事件だけを追っているのなら新聞記事で充分です〟
アンナの以前の発言がエヴァンの胃をえぐる。
「ぐっ……」
エヴァンはもう一度布団の中に臥せった。
「駄目だ……急に過去の自分が殴りつけて来やがった」
小説家になりたい一心で書いた話が、今改めて見返すと、こんなにも稚拙なものだったとは。
急速に作家としての自信を失って行く。
そんな時だった。
コンコン。
「エヴァン?調子はどう?」
アンナの声がする。エヴァンは答えた。
「大丈夫だ」
「……入っていい?」
エヴァンは羞恥に身がすくんだが、アンナの顔がどうしても見たくなる。
「……いいぞ」
アンナはそうっと薄暗い夫の寝室に入り、彼の枕元に例の本が置いてあるのを物珍しそうに眺めた。