14.私はオルムステッド
エヴァンの告白を聞いて、アンナは思わず笑った。
「あなたがオルムステッド先生ですって?またまた、エヴァンったら……」
彼はじっと黙っている。
その真剣な眼差しに、アンナはどきりと胸を押さえた。
「……本当なの?」
「本当のことだから、君だけに言った」
彼の目は、どうも嘘をついているようには見えない。
「……ブライアンに聞いてもらえば分かることだ」
アンナはごくりと息を呑む。編集者の名前を出されると、急に現実感が増す。
こんな堅物が恋愛小説を書かなければならないとは、何かのっぴきならない事情でもあるのだろうか。
アンナは彼が心配になって来た。
「なぜ、あなたみたいな男性が、恋愛小説を書かなければならなかったの?」
エヴァンは急に縮こまる。
「……小説家になりたかったから。ただそれだけだ」
アンナは寂し気に眉を下げる。
「何よ、それ」
「……自分でもそう思う」
アンナはその理由に呆れながら、正直これが嘘であって欲しいと思った。
「オルムステッド先生、ちょっといくら何でもそれは読者を馬鹿にし過ぎだわ。みんな、あなたが読者を楽しませたいから書いてると思って読んでいたのよ?」
「……分かってる。いや、今日この地を訪れて痛感した。だからこそ、君に言わなければならないと思った」
アンナは刮目する。
「そういうこと……なるほどね」
アンナが草原を歩き出し、エヴァンがとぼとぼとついて行く。
「前に言ってたわね。あなたは冒険小説を書いたけど現実感がないって却下されたって」
「……」
「恋愛を書きたくて書いたわけではない。でも書いたら受けが良かった。だからとりあえず書き続けて今に至る。そういうことなのね?」
「……」
「あー、ちょっと幻滅。でも、あなたが私にそれを言い出したのは、きっと……」
アンナは振り返った。
「変えたくなったのね、自分自身を」
エヴァンは図星を指されてうなだれる。
「……君の前だから、はっきり言おう。正直、今まで読者の気持ちなんか考えたことはなかった。小説の切り張りをし、数字取りのゲームのように売り上げに一喜一憂し、先生と呼ばれることに心酔していた。しかし売り上げが下がり、更に君がうちに来たことで急に書くことについて考えざるを得なくなったんだ。自分はこのままでいいのかと──」
アンナもうなだれた。
「でも、オルムステッド先生」
彼女は顔を上げる。
「あなたが何を考えて書いたかによらず、あなたの小説を待っている人は確実にいるのよ」
エヴァンが、苦痛を我慢するように唇を噛む。
「まずは、そういう人を悲しませないようにすることが一番じゃないかしら。今お書きになっている〝令嬢クリスティーヌの婚姻〟をしっかり完結させましょう。読んだ後、誰もが幸せになれるように」
アンナは歩いて行くと、凍えるエヴァンに身を寄せた。
「馬鹿な人。けど、私に秘密を打ち明けられたのは一歩前進ね」
エヴァンも、恐る恐るアンナの背中に手を回す。
「許してくれ、アンナ」
「許しを乞うのは私ではなく、読者の方でしょ」
「……!」
「まあいいわ。あなたは変わろうとしているし、ちゃんと読者に向き合おうとしてる。私に話した以上、あなたはもう何も隠し立て出来ないわけだから、こっちもとことん付き合うわよ」
「ごめん」
「もう、メモは取らないで。ちゃんと、頭が記憶し、心からにじみ出るものを文にして行きましょう。あれだけのものが書けるのだから、あなたにだって元々そういう能力は充分に備わっているはずだわ」
可哀想になるぐらい落ち込む夫を、アンナは励ました。
「……ねえ、もう一度聞いてもいいかしら」
「……ああ」
「私のこと、好き?」
エヴァンはアンナの額にキスをくれてから、言った。
「……好きだ」
「その気持ちがあるなら、大丈夫。あなたにも、ちゃんとあなたなりの恋愛小説が書けるはずよ」
「……でも、さっきの女性たちはオルムステッドに心情描写は期待してないって……」
「やだぁ。そんな大きな成りして、そんなこと気にしてたの?」
「……」
「みんな何だかんだ言ったって、まだあなたを必要としているわ。待っている読者のためにも、あなた自身の言葉を獲得して、信頼を回復しなくっちゃ。」
アンナはエヴァンの頬に触れた。
「私からも、ちゃんと言うわね」
聖地に、大きな風が吹く。
「オルムステッド先生、ありがとう。少女時代の辛かった私に、生きる勇気と希望をくれて」
エヴァンは、泣くのを堪えるように微笑む妻を見下ろした。
(こんな風に思ってくれる妻を、読者を、裏切るわけには行かない)
それは自己顕示欲と数字を追い掛け回してばかりいた彼に、初めて芽生えた感情だった。
今度は何も気負うことなく、エヴァンは全てを脱ぎ捨てた心で妻に口づける。
アンナは静かにそれを受け入れて、彼のほろ苦い愚かさと甘ったるい素直さに心を震わせた。