11.初デートは聖地巡礼
一週間後。
仕事の合間を縫って、ようやく二人での外出が叶った。
行先は、アンナの希望した街〝サンドフォード〟。
馬車の中、アンナはぎゅっとエヴァンにしがみついている。
エヴァンは真っ赤になって身じろいだ。
「……今日はずいぶんご機嫌だな」
「いいじゃない。だって、またひとつ夢が叶いそうなんだもの」
「夢?」
エヴァンが問うと、彼女はこくこくと頷いて見せた。
「私たちが今から行くのは何を隠そう、小説〝藤の庭〟の舞台である〝サンドフォード〟の街なのよ!ずっと行ってみたかったの」
サンドフォードはここからほど近い小さな田舎町だった。しかし、かつて聖人が奇跡を起こした泉があるとかで、ちょっとした観光地でもあるのだ。
「ふーん、小説の舞台か……」
「ふふふ。そう、つまり聖地巡礼に行くというわけなのよ」
「聖地巡礼?」
エヴァンがおっかなびっくり問うと、アンナはふんと鼻を鳴らした。
「あら、ご存知ないの?今、作品に出て来る土地を巡るのが、女性たちの間でブームなのよ」
エヴァンには初めて聞く流行だった。
「なるほど、現地視察か……」
「だーかーら、聖地巡礼!」
言い方にもこだわりがあるらしい。
エヴァンはもちろん〝藤の庭〟も読み込んでいた。片田舎の少女が、その賢さと機転で貧民からのし上がって行く成り上がりストーリーだ。現在の巻では、都会に出て教師になった少女が都会の地位ある商家の跡継ぎと恋仲になっている。今最も熱い展開を迎えている恋愛小説なのだ。
「私ね、その聖地巡礼に、好きな人と行くのが夢だったの」
こちらにもたれてそう囁く彼女に、エヴァンはどぎまぎした。
「〝好きな人〟?」
無粋なおうむ返しに、アンナは口を尖らせる。
「あら……あなたを好きになったら駄目なのかしら」
「いや……ところでどこを好きになったんだ?」
「前も言ったわ。才能のある男の人って素敵よね」
「才能……」
「あと、何だかんだ私の希望通りお花畑に連れて行ってくれたし、とにかく私の邪魔だけはしないでいてくれる。女性は男性に機嫌を取られて、悪い気はしないものよ。あとは、あなたが小説家志望だって聞いたから」
エヴァンはひゅっと息を呑んだ。
「そんなことで……?」
「そんなことだなんて言わないで。同じ趣味があるって素晴らしいことよ。正直あなたに嫁いだ当初は不安だったけど、あなたがこちらの趣味に肯定的な人だと分かって、私、本当に気持ちが楽になったの」
「……」
「私が恋愛小説を集めていることをあなたは馬鹿にしなかったわ。それだけで嬉しかった。実のところ父なんかは私から〝女が女のために書いた恋愛本〟を取り上げようと躍起になってたんだから」
今度はエヴァンが気色ばむ番だった。
「何っ。君の父上はそのようなことを……!?」
「ええ。貴族の娘が恋なんかに憧れたら困るんでしょう、親としては」
「!!」
「だから、隠れて読んだわ。両親に気づかれないように、布に巻いたり隠し本棚に入れたりして」
エヴァンは愕然とし、深刻な顔になって前を向く。
(同じだ……自分と)
幼い頃のエヴァンも、まるで隠れて信仰を続けている異教徒じみた読書をしていた。
彼女もまた、同じ経験をしていたのだ。
「アンナはそうまでして、私の本を読み続けてくれたのか……」
エヴァンはじわじわと腹の底が温かくなって行く気がした。
「ん?エヴァンったら変なの。何に感謝してるのよ」
「ああ、いや……女が趣味を持つのも大変なのだと思って」
「ええ、とっても大変よ!学者の家系なら女の読書にも寛容かもしれないけど、世間は女の子にはなるべく愛に目覚めず、馬鹿でいて欲しいっていう層が多数派なの。私の父も多分に漏れず、その層だったというわけ」
「……」
「女の子を馬鹿にしてるわ。だから私は救われたの、恋愛小説に。好きな人と結ばれるために頑張る主人公に自分を重ねて、生きる勇気を貰ったわ」
見えない読者。
その内のひとりがここにいる。
そして誰もが皆、抑圧された人生を生きている。
自分が〝小説家になりたい〟という欲だけで書いていた小説に、彼女は救われていた──
エヴァンは覚悟めいた瞳で、アンナの肩を抱いた。
「……それは、辛かったろう」
アンナは幸福そうに微笑んで、エヴァンの肩に頬をすり寄せる。
「小説は生きる糧よ。分からない人には、永遠に分からないだろうけど」
長いこと馬車に揺られ、昼頃にサンドフォードに到着した。
静かな田舎町。あちこちに〝聖なる泉〟ののぼりや看板が立っている。
「聖なる泉って、どんなところかしらね?」
「〝藤の庭〟には出て来なかったのか?」
「出てなかったわ。ところで私たちの聖地はここじゃなくて、ほら、あっち」
アンナの指さす方向に、紫色が溢れる庭が見える。
「あそこか……」
「あれが〝藤の庭〟の舞台であり、アデーレ・メリアス先生の御実家なのよ!」
メリアス女史は、主人公を自分の境遇に近づけるタイプの作家なのだろうか。
二人は大きな藤棚のある家まで歩いて行った。
藤棚の下にはちらほらと先客がいて、女性達が話に花を咲かせていた。藤の甘い香りの中、テーブルと椅子が整然と並べられている。喫茶店のようだ。
エヴァンは気後れするが、アンナはずんずんと進んで行く。
席に着くと、初老の男性が早速注文を取りに来た。
二人はワインビネガーのジュース割りと軽食を頼むと、藤棚を見上げた。
「ああ……本で読んで想像していたより、ずっと素敵」
アンナは小説の一ページを思い返すように、目を閉じた。
「この景色を思い出せば、もっと〝藤の庭〟の世界が楽しくなるわね。ここに来てよかった」
エヴァンは少し深刻な表情でジュースの水面を見つめた。
切り張りで小説を書いていた自分。
読み手の人生や背景など、何も考えずに書いていた。
「……どうしたの?エヴァン。顔色が悪いわよ」
「……いや」
エヴァンが縮むように黙り込んでいると、近くで声がする。
「旦那様と聖地巡りなんて、素敵ですね」
シェンブロ夫妻が顔を上げると、そこには見慣れぬ女性が二人立っていた。
「あら、あなた方も〝藤の庭〟の聖地巡礼を?」
「ええ。もしよろしければ、もう席がないのでここに相席させてもらってもよろしいかしら?」
エヴァンは周囲を見渡した。確かに、昼時のためか既に席が埋まっている。
「いいですよ、どうぞこちらへ」
アンナの言葉で、女性たちはすぐ隣の空いている椅子に座った。