10.好きって言ってほしい
花畑から帰る時、アンナはぎゅっと夫の腕にしがみついた。
彼に自分を女性として扱ってもらえて、とても嬉しい。そしてそのような感情が夫に芽生えた自分にも嬉しくなる。
一生、共に生きる人。
(好きになるに越したこと、ないものね)
恋愛小説に没入していた幼き日の自分とは、もうお別れするべきなのだろうか。
一方のエヴァンはもう、彼女から離れようと身をよじることはしなかった。
ただじっと考え続けている。
(こんな気分は、初めて味わう)
何となくふわふわしている。
半笑いで恋愛小説を書いていたあの時には決して抱かなかったであろう、恥をむしろ楽しんでいるような気持ち。
気恥ずかしさが心地いい。
(……この心情は、のちのち小説に使える……!)
エヴァンの脳内は深刻な職業病に蝕まれつつあった。
書斎に帰ると、エヴァンは早速原稿に取り掛かった。
四巻の日常回で失われた作家への信頼を、五巻で取り返さなくてはならない。
その方法はもう決めている。五巻もまた日常の連続を入れるのだ。そして巻末に読者をあっと言わせる「引き」の展開を差し込んで、次巻の購買に繋げたい。
その日常。
(アンナとのやりとりを参考にしよう)
彼はそう決めていた。
(思えばこのタイミングで結婚したのも天の計らいに違いない。小説を更に輝かせるための題材を、小説の神様が与えてくれたんだ)
エヴァンも小説家の端くれらしく、何でも〝小説を書くため〟という理由に当てはめてしまう癖があった。
今日も色々なことが起こった。アンナとの距離をぐっと縮めたのは、自分が彼女に描き与えた絵だった。
(機嫌を損なった彼女に、絵をあげて……)
小説内のキャラクター達に、己の日常を与えて行く。
(……でもあんまり現実と同じにするとバレるか)
微妙なさじ加減が必要だった。
しかし、今日のエヴァンの筆は、驚くほど主人公であるクリスティーヌを輝かせて行く。四巻でヒーローであるレイモンドとの生活──いや〝レイモンドのお世話〟をしている様子とは、出来が雲泥の差である。
アンナの笑顔とクリスティーヌの笑顔がぴたりと重なる。
エヴァンは少し、嬉しくなった。
夕食の時間になり、エヴァンとアンナは顔を突き合わせた。
いつもの食事だが、アンナがこちらに投げかける視線が明らかに違う。
それは、愛情を含んだ視線。
エヴァンは初めてそのような暖かい眼差しを女性から向けられ、どきりとした。
食事をしながらアンナが問う。
「ねえ、あなたは私と結婚する前、どんな国へ行ってたの?」
エヴァンは答えた。
「一番遠かったのは極東のマルヤマ国だ。とても美しい肌をした、目の細い人種が住んでいる。そこは園芸の聖地なんだ。色々な国からプラントハンターが集まっていた」
「へぇー。園芸の聖地……」
「庭園の造り方も独特で、いちいち刈り込んだりせずに伸ばしておいたり、あえて岩を無造作に並べて自然に近づけようとする。何でも形を整え、シンメトリーに並べたがる我が国の造園とはまるっきり違う。そこに行くと、美とは何かが根底から覆される気がするんだ」
「庭を自然に近づけようだなんて、おかしいわね。それじゃあ山へ行ったりするのと変わらないじゃない」
「あの美しさは一度見ないと分からないと思う。我々は庭によって自然を秩序立てようとするけど、マルヤマ国では自然を造ることで秩序を取り出してみようと試みているんだ。方向性の違いだな」
「あら。今の考え方、とても素敵。ね、エヴァン。やっぱりあなたは思索家だし、小説家に向いてるわ」
エヴァンは妻の急な話の転換に怯え、曖昧に笑って見せた。アンナは続ける。
「私、あなたのことがもっと知りたい」
エヴァンは冷や冷やと額の汗を拭う。
「……そうか?」
「一生一緒に過ごすんだもの。もっとあなたを知れば、もっと好きになれる気がする」
「そうかな……」
「エヴァンは私のこと、好き?」
エヴァンは赤くなった。執事のコリンが遠くで何やらむせている。
「……急だな」
「だって……好きって言ってほしいもの」
アンナはまだ、恋に恋する乙女なのだ。恋愛小説をずうっと読んで来たということは、恋愛に対して並々ならぬ興味があるのだろう。
あまり恋愛に興味のないエヴァンは正直返答に困った。だが、黙っているのも可哀想だ。
「……好きだよ、多分」
「えー、何よ。そんな生半可な気持ちでキスしたの?」
「ちょっ……」
「男の人って嫌ね。気持ちがついて来なくても、そういうことが出来ちゃうだなんて」
「やめてくれ誤解だ……その、こういう感情はどう名づけたらいいか……」
「ふーん……」
アンナは目をすがめた。
「やっぱり両想いって難しいのね。私、キスして損した」
「……!」
「まあいいわ。結婚生活なんてこんなものよね。愛されなくても妻である以上、夫の要求は飲まないといけないのよ」
アンナは気を取り直した様子を見せたが、エヴァンは焦った。
なぜ焦るのかは、自分でもよく分からない。
ただ──
(彼女に嫌われたら非常に困る。小説どころか絵も描けなくなるかもしれない)
という、妙な方程式が彼の中で出来つつあった。
「はー、しょうがないわね、また恋愛小説を買い込むことにしようっと。気分を変えて、味のしない現実を忘れなくっちゃ」
「……気分を変えたいのなら、一緒に外出でもどうだ?」
夫の提案に、アンナは目の色を変える。
「あら、いいわね!お出かけ?」
「ああ。いい場所はよく分からないが……君の行きたいところがあれば連れて行こう」
「行くわ!ああ、ついに私にも男の人とデートをする日が来たのね……どこに行こうかしら」
夢見る乙女はうっとりと虚空を見上げた。
エヴァンは妻に悟られぬよう、ほっと胸を撫で下ろす。