1.堅物公爵との結婚
ある晴れた日に。
アンナは教会で、植物学者のシェンブロ公爵家当主エヴァンとの結婚式を執り行っていた。式を終えると彼女はシェンブロ領内の植物園に連れて行かれ、新郎と立食パーティーの中を立ち回らされる。
アンナは夫を見上げた。
黒髪を後ろになでつけ眼鏡をかけた、いかにも学者気質の知的な双眸を持った背の高い男、エヴァン。アンナより五つ年上だ。変わった性格の学者だという噂は以前から聞いていたが、結婚の当日まで、彼との面識は特になかった。
彼は時折、その切長の鋭い視線でこちらをちらと見下ろして来る。アンナはそれを受け、嫌な印象は抱かなかった。
見た目は合格──と自分の中で裁きを下しながら、アンナは自分から彼の腕を組みに行く。
エヴァンはびくりとしたが、平静を装う。どうやら彼は女性慣れしていないらしい。無表情だった夫が少し可愛らしく見えて来て、アンナは吹き出すのをこらえた。
(悪い人ではなさそうね……)
アンナは逃げるように動こうとする彼に引っついた。新郎はともかく、新婦は式後から、すぐに妻としての振る舞いを求められるのだ。夫にすり抜けられるわけには行かなかった。
(何で逃げようとするのかしら?変わり者ともっぱらの噂だったけど、予想以上だわ)
互いに無言の奮闘を続けていた、その時。
「エヴァン先生、アンナさん。結婚おめでとう」
夫と懇意にしているらしい男性が、アンナの目の前に現れた。白髪に白い口髭の、太った紳士だ。
貴族の結婚式は、ある意味で営業の場。
エヴァンの仕事先、取引先、親戚、全てがそこに集っているのだ。面識がなかろうと、粗相は許されない。
アンナは貼り付けた笑顔で答えた。
「初めまして。えーっと」
「私は編集者のブライアン・ボガートです。ご主人にはペンドリー出版でお世話になっております」
ペンドリー出版はアンナも知っていた。文芸書を幅広く扱っている出版社だ。
「ブライアンさん。今後とも夫をよろしくお願い致します」
「こちらこそ。エヴァン先生はうちの稼ぎ頭ですから、ぜひとも奥様にサポートしていただかなくては……」
するとエヴァンが急に話を遮った。
「ブライアン、その話はまた後で」
「ん?あ、ああ……」
くるりと踵を返したエヴァンをぽかんと見上げ、アンナは夫の性格を予想する。
やはり学者というものは、研究に没頭するあまり、偏屈で気分屋なのであろう。
しかし彼の植物図鑑がペンドリー出版の稼ぎ頭であるとは初めて聞いた。ペンドリー出版と言えば主力は文芸書のような気がしたが、学術書もそれなりに需要があるのだろうか。
お披露目が終わって自宅に戻ると、エヴァンは結婚したばかりなのにアンナからさっと腕を抜き、妻を置き去りにしてすぐに書斎に籠ってしまった。
アンナは呆然と自室に入るとベッドに腰掛け、前途多難な新婚生活を憂う。
「……やっぱり、あの人変わってるわ」
あの男。
まさか妻に指一本触れずに、部屋に籠り続けるつもりなのだろうか。
と、その時。
コンコン。
戸が叩かれたので、アンナは返事をした。
「入っていいわよ」
「奥様、失礼いたします」
老執事のコリンが入って来た。
「初めまして奥様、執事のコリンと申します。ところで何かご入用のものはありますか?おっしゃっていただければ、何でもご用意させていただきます」
アンナはぱっと顔を輝かせた。
「……エヴァンがあなたを寄越したのね?」
老執事は言いにくそうに答えた。
「いいえ……」
アンナの顔は途端に曇った。
「ああ、そう……まあいいわ。私、本が好きなの」
「さすがは学者の奥様でいらっしゃいますね。どういった本をお読みになりますか?」
せっかく褒め殺されたところなのに、まさかこんなことを言わなければならないとは。
「れ、恋愛小説を」
「……はい?」
アンナは顔を真っ赤にして続けた。
「女性向けの恋愛小説が読みたいの。アデーレ・メリアスの〝藤の庭〟シリーズに、ケイト・レスターの〝シャウムブルクの窓〟、それからブリジット・オルムステッドの〝令嬢クリスティーヌの婚姻〟──」
老執事はそれらをすぐに暗記した。
「かしこまりました。明日、買いに走らせます」
「頼んだわコリン」
執事が出て行くと、アンナはベッドに寝っ転がった。
新婚生活とは、幼き日に夢見た状況とはほど遠い──
「こんなものなのよね」
彼女は自分に言い聞かせた。
「現実がこんなものだから、小説の中はあんなに輝かせなければならないのよね」
アンナは恋愛小説の作者たちのことを思った。
「きっと彼女たちも、満たされない現実を暮らしているに違いないのよ……」
一方その頃。
エヴァンは新種の花のスケッチの上に慎重に筆で顔料を落としながら、ふと顔を上げた。
「そういえば……アンナは」
そう思ったが、手元に出したばかりの顔料が乾いてしまうとのちのち困る。
「まあいいか。女は苦手だし……妻なんか、どうせ一生ずっと家にいるんだ。後回し後回し……」
彼にとって、妻との接触は最優先事項ではなかった。
彼の中では常に、優先順位があった。それは常に目まぐるしく順位を変え、彼を突き動かしていた。
今日の優先事項は植物図鑑に掲載予定のスケッチに色を乗せること。締め切りが近いのだ。
そういったわけで、彼の中の格付けにおいて妻の順位はあっという間に遥か下段に埋没して行った。
スケッチに忙しい彼の中から、いつしか今日が結婚初日である事実が霧消する。
色を塗り終えると、彼には別の作業が待っているのだ。
デスクの右端に積まれている原稿を引っ張り出し、彼は赤いインクで忙しく修正稿を入れて行く。
原稿の表紙には、こう書かれていた。
〝令嬢クリスティーヌの婚姻・5〟