世界の終わりと透明人間
世界が終わろうとしていた。まだ完全に終わってしまうまでにはかなり時間がかかるかもしれないが、それでも終わろうとしていることには変わりなかった。
彼女は書き物をする手を止め、部室の窓から外を見やった。少し前までよりビルの数が減っている。どこかで煙が上がっている。人影などあるはずもなかった。
「姉ちゃん」
声のした方に目を向けると、いつの間にか足を伸ばして座る弟がいた。
「来ちゃった」
弟はにやりとした。
「こんな時でも文芸部はまだ活動してるんだね」
彼女は軽く笑った。
「そうね、貴方の話を書かなきゃいけないから」
「僕何かネタになるようなこと言ったっけ?」
「貴方を主人公にして書いてるの」
「へえ!」
弟は目を丸くした。それからにっこりしてもう一度「へえぇ」と呟いた。
「姉ちゃん、そんな無理して書かなくていいんだよ。そのために生まれてきたわけじゃないしさ」
そう言った弟の声は弾んでいた。
弟の姿は誰にも見えない。声も誰にも聞こえない。彼女以外には。なんせ弟は「透明人間」なのだから。
彼女が4歳の頃、弟は突然現れた。彼女は弟の名前も知らなかった。名前などどうでもいい、そんなことより自分が「お姉ちゃん」でいられることが嬉しかった。いつでも一緒というわけではなかったが、二人は仲の良い姉弟だった。たとえ弟が「透明人間」でも、それは二人にとっては大した問題にはならなかった。
弟は壁に顔を向けた。
「隣、漫研だよね?何の音?」
言われてみれば、隣の部室から何か音が響いている。金属を打つような音、木の板か何かがバキリと折れる音、ドンッと何かぶつかる音。
「さあ。秘密兵器でも作ってるんじゃないの」
「ふうん」
不思議そうに漫研の方を見つめていた弟は、そのまま彼女に向き直った。
「秘密兵器作る漫研の方がよっぽど面白いと思うけどな、僕の話なんかよりはさ」
「それもいいけど、今は貴方を残したいの」
世界が終わるまでに「透明人間」である弟の物語を書く。彼女はそう決めていた。自分がいなくなれば弟の存在は永久に無かったことにされてしまう。それはこの世界にとって大変な損失だと彼女は本気で信じ込んでいた。
「『透明人間』はそう簡単にいなくなったりしないよ。姉ちゃんだってわかってるでしょ?」
「でも誰も貴方のこと認知してくれなくなっちゃうじゃないの」
「そりゃそうだけどさ」
私しか貴方を知らないままなんてもったいないじゃない。彼女はそれだけ答えると書き物を再開した。
「さっさと書いちゃわなきゃ。いつ滅ぶかわかんないんだから」
しばらく彼女は黙って書き続けた。弟は部室の本の背表紙を読んでいた。窓から陽が差し込む。いい天気だ。鳥の鳴き声もよく聞こえる。時折隣の部屋から破裂音も。
彼女はぐっと伸びをして、ふうっと息を吐いた。
「滅ぶなら寝てる間に一気に滅んでほしかったよ。こんなじわりじわりくるとは思わなかった」
彼女は一息おいて続けた。
「まあ、じわりじわりだからこそ貴方の話が書けるんだけど」
弟は笑った。危機感がまるで無い姉だ。もうすぐ何もかもなくなってしまうというのに。
「さすが、『透明人間』をすんなり受け入れた人は言うことが違うなあ」
「それ褒めてるの?」
「すごく褒めてる。褒めちぎってる」
すると隣からガタンと何か落ちた音がし、誰かが小さく「あっ」と叫んだ。二人は顔を見合わせ、くすっと笑った。
「それ、書けたら読ませてね」
「はいはい」
なおも書き続ける姉の隣で、取り残される弟は終わる世界を眺めていた。