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短編小説集 à la carte

丘陵にて

作者: 篠崎フクシ

 ──風が樹々の梢を揺らす。


 五月の森は深い緑をたたえ、光は梢とともに、小径に落ちる二人の影を小さくつくった。なだらかに傾斜する多摩丘陵は、街からは緑の島が点在し浮き上がっているように見える。


 その小高い丘の上は広い森になっていて、平日の午後は、彼らの他に人影はない。


「もっと買ってくればよかったな、ビール」

 テツヲはマスクを顎まで下げて、缶ビールに口をつける。金色の髪は逆立っていて、森の緑には似つかわしくないな、と一緒に歩いているサクは思った。サバンナから紛れ込んだ肉食獣だ、と。


「昼間から、あんま飲みすぎんなよ、テツヲ。誰かに会ったら変な目で見られる」

「変な目って、誰の目だよ。ずいぶん変わっちまったんだな、サクはよっ」

 そう言いながら、テツヲはサクの肩を拳で軽く殴った。昔から二人はよく戯れあった。そしてヤンチャをしては、いつだって愉しみも痛みも分かち合ってきた。


 細いけもの径は、尖った長い草たちにほとんど塞がれていた。時折、紋白蝶がふわりと現れては消えていった。蛇行する径は坂になっていて、二人の息は徐々に荒くなっていった。テツヲの目は落ち着きなく、周りの動きには敏感だった。サクはじっと前だけを向いて歩いている。黒くて長い前髪が、微かに揺れている。


「もうすぐだ」サクはちらっとテツヲの顔を見て微笑んだ。マスクの下からなので、テツヲはその微笑に気づかず、走り始める。


 視界が開け、一陣の風が二人の躰を通り過ぎていった。

「ああ、すげえ、気持ちいい」

 テツヲは飲み終わったビールの缶を握り潰し、それを空に向けて掲げた。アルミ缶の縁が、陽光を反射して燦く。


「あそこが俺たちの住んでる街だ。なあ、テツヲ、こう見ると小さい街だよな。俺たちまだ二十年しか生きてないのに、ぜんぶ見えちまってる」


 そう言いながら、サクは丘の上の倒木に腰掛ける。

()()二十年だよ、サク。俺はサクと違って頭悪いから、二十年経っても何も見えないし分からないよ。高校も面倒くさくて中退しちゃったし……」

「テツヲ、お前の頭は悪くなんかない。小学生の時に、お前の書いた『いもむし』って詩を読んで、すげえって思ったもん、ほんと」

「うわっ、黒歴史だ、それ。蝶に成れない芋虫のこと書いたら、担任のやつが妙に褒めてくれて、廊下に張り出されてさ、嫌がらせかよって思った。みんなにもキモっとか言われて……」

「俺はキモいなんて思わなかったよ。普通にすげえって……、なんか嫉妬した」

 テツヲは頬を赤らめ、話題を変えようとした。

「もういいよ、その話は。俺はお前みたいに頭のいいやつが、教師になってくれればいいと思ってる」

「教師か……、大学なんてクソつまんないとこだよ。みんな見栄の張り合いでさ。テツヲみたいに自由に生きられたらって、よく思う」

 その言葉でテツヲの表情は険しくなり、サクを見ず、足もとの小枝を踏み折った。

「サク、いま俺は失業中なんだぜ。コロナのせいで居酒屋のバイトはクビになるし、女には逃げられるしで、何も良いことない」


 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的拡大パンデミックによって、政府は緊急事態宣言を発出した。密集、密接によるクラスターの発生を抑えるため、多くの飲食店は営業の自粛・縮小を余儀なくされ、経営難に喘いでいた。サクはネットのニュースに書いてある、その程度の知識しかないことを、恥じた。


「そうだな。悪かった、テツヲ。俺は恵まれてるのかも知れない。養父の金で大学まで行かしてもらって、こんな状況になっても、食っていけるからな」

 テツヲは深刻な雰囲気を和らげようと、また、話題を変えようとする。

「そ、そうだよ、お前、恵まれてるよ。今って、あれだろ? 大学の授業はズームとかいうアプリ使ってやるんだろ? で、教授の鼻毛がドアップで映ったりして」

「はは……、相変わらず下品だな、テツヲくんは。しかし、まじでオッサン、オバさんの顔面アップは迫力あるわ」

 二人は声を上げて笑った。サクもテツヲも、久しぶりに笑ったような気がした。


 また風が吹いた。遠くのヤマツツジが、紅色の炎を上げて燃えているようだった。


「あ、猫だ」

 白と茶の斑猫が二人の前に現れ、テツヲはぼんやり呟いた。猫は様子を伺ってから、すぐに立ち去ってしまった。

「……、さん。お母さん、どこ行くんだよ。また、僕を置いていくの?」

 テツヲは倒木に座るサクの、奇妙な台詞に目を見張った。サクは猫が消えた草叢に向かって、何かを言っていた。

「……? サク、お前さっきから誰と喋ってるんだよ。サク」

「え、ああ……、何でもない」サクの額は冷や汗で濡れていた。「時々さ、死に別れた母親が目の前に現れるんだ。可笑しいよな、もうずっと昔のことなのに」


 横に立っていたテツヲは、サクの肩に手を当て、「可笑しくなんかないよ」と言った。

 猫はそれきり、現れることはなかった。


 ──丘陵に吹く風は、しだいに冷たくなっていった。

 

 ❇︎

 

「それで、サクの七回忌のことなんだけど」


 テツヲは電話で旧友たちに、サクの七回忌に集まろうと呼びかけていた。小学校、中学校と、同じ街で育った仲間のほとんどは快諾してくれた。


「じゃあ、丘の上で」

 受話器を置いたテツヲは、キッチンで鼻唄を歌っている妻を見た。

「もうすぐサクの七回忌なんだ。あいつ、呆気なく死んじゃったけど、丘の上で、みんなに憶い出して欲しくてさ、サクのこと」


 サクは大学の卒業式を待たずに、心臓発作で急死した。湯船に浸かり、幸せそうな顔をして、心臓だけが止まっていたという。医者はなぜか、寿命という言葉を使った。


「うん、あなた頑張ったものね。報告しなきゃ、サクくんに。あれから人が変わったように勉強して、高卒認定試験を受けて……」

「教員採用試験の合格までは、何年か余計にかかったけどな」

「諦めない、ってことが大事なのよ」

「そういうもんかな」


 テツヲはグラスにビールを注ぎながら、窓の外を眺めた。日曜日の夕方は静かだった。日が伸びてきたので、遠くの緑の島々がうっすらみとめられる。


「そういうものよ」


 妻はまた鼻唄を歌い出し、フライパンで何かを炒めはじめた。

 テツヲはそっと目を閉じて、サクと見た街の景色を憶い出していた。あの丘の上から見える、小さな街の景色を。【了】

 

 

 

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