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1193①

わたしの兄、都留には、いくつかゆづくんとの共通点がある。一つは、彼もまた Number‘s Numberが好きだったこと。二つは、彼も絵という形で何らかの作品を遺していたということ。三つ目は、いつも恥ずかしげに笑っていたことだった。


「おはよう、依斗」


「おはよう、都留」


わたしたちの一日は、いつもあいさつで始めった。両親は共働きで、わたしたちが起きる時間には、二人とも家を出ていた。おかげで経済的には不自由のない暮らしができているのだが、未だ両親との明確な思い出はほとんどない。家族旅行も行ったことはないし、食卓を囲むことも、最近はかなり少なくなっている、強いての思い出を挙げるとすれば、習い事が嫌で行かなかった日に、こっぴどく怒られたことくらいだろうか。とにかくわたしたちは、両親からの愛情はさして受けずに育ってきた。だから兄妹で一緒にいる時間を多かったし、そのぶん関係も深かったはずだ。


「今日も朝ごはん作ってもらっちゃって、ごめんね」


「先週結構作ってもらったから、謝らなくて良いんだよ」


「今日は、何を作ってくれてるの?」


「一応、卵を焼いてる」


「そういう料理、いっぱいあると思うけど」


「だから、焼きあがってからのお楽しみだよ」


わたしたちの決まりとして、「先に起きた方が朝食を拵える」というのがあった。お互い料理は少なくとも得意な方ではなかったから、レパートリーは多くかったが、それは大きな問題ではなかった。都留との食事は、わたしにとって心安らぐ瞬間だったのだ。


「はい、スクランブルエッグね」


レタスとソーセージを和えた白い皿を二つ、都留の待つ食卓に並べる。


「ありがとう。洋風の方だったのね」


「和風の方だと思った?」


「目玉のやつかと思ったよ」


「なるほど。残念、洋風でした」


それからわたしたちは、二人揃って「いただきます」と手を合わせてから、食べ始めた。


ソーセージをかじり、牛乳を飲み、卵を頬張る。特に何を喋るでもなく、食事は続く。都留は特に表情も変えず、もぐもぐと卵を頬張っていた。


「昨日、絵が、完成したんだ」


卵を飲み込むと、都留が輪郭の薄い声で言った。


「お、そうなんだ。手応え的にはどう?」


「まだ満足いく出来ではないけど、一応表現したいことは表現できたかな。でも、スランプはまだ脱してないかな」


「そうなんだ。早く抜けられると良いね」


一年くらい前から、都留は絵のスランプに陥っていた。幼少期からジャンルを問わず色々な絵を描いてきた都留だが、一年前に腱鞘炎を発症したのを機に満足に絵が描けなくなってしまったようだった。


「今日、帰ったらその絵見ても良い?」


「いいよ。今日は瑛人と会う約束してるから、僕がいない間に部屋に入って見てくれていいよ」


「わかった。エイちゃんとどっか行くんだ?」


「今日は高校の芸術鑑賞会で、全校でミュージカル観に行くんだ。その後にちょっと遊びに行こうって」


エイちゃんは、都留と同じ高校に通っていた。


「どこ行くの?」


「特には決めてないな」


「エイちゃんの奴、相変わらず適当だな。行き当たりばったり」


「まあでも、そういう人だからこそ、僕なんかと一緒にいてくれるんだろうけどね」


都留が「僕なんか」の部分を強調して言っていて、わたしは少し悲しくなる。


「まあじゃあ、とりあえず帰ったら絵見ておくね。感想は後で言うよ」


「うん、よろしく」


それから朝食を終えると、わたしたちは食器を片付けてそれぞれ制服に着替えた。玄関口でローファーを履く。


「じゃあ今日は、わたしが鍵持った方が良いか」


「そうだね。よろしく」


「じゃあ、いってきます、いってらっしゃいということで」


「そうだね。いってきます、いってらっしゃい」


そうしてわたしたちは、家を出た。玄関口から門を開け、家を出ると、薄い雲が空に、ほんのりと浮かんでいた。


わたしは、逆方向へ向かって歩く都留に手を振った。都留も控えめに笑いながらそれに振り返してくれたので、わたしはちょっと嬉しくなって、胸が心地良く弾んだ。







その日、通学の電車の中で何を聴いていたのかは、よく覚えている。わたしはその日、「Spring story」を聴いていた。ドアに寄りかかり、流れゆく街を見下ろしながら、「Spring storyは冬に聴いても良いなあ」と呑気なことを考えていた。スランプ中とはいえ都留の新作を見るのが楽しみでもあったから、その日の電車は上機嫌で乗っていた。あのニュースを見るまでは。


わたしは「Spring story」を聴きながら、なんとなしに電子版の新聞に目を通していた。高校時代のわたしは、通学中にニュースを確認するのを習慣付けていたのだ。見出しと興味のある記事だけを大まかに目で追い、画面を閉じた。そして、なんとなしにSNSのアプリを立ち上げた時、わたしは思わずスマートフォンを落としそうになってしまった。


『【訃報】Number‘s Numberのギタリスト、柏葉裕介氏が死亡。享年27」


血の気は引いていて、体に力が入らなかった。その文字列を現実のものとして受け入れることができず、夢に違いないと思った。心臓の鼓動は激しく脈を打っていた。


「そんなはずがない」


わたしは胸の中で、何度もそう言った。記事をタップする勇気は、湧かなかった。


学校に着いてから、わたしはバンドの声明文を読んだ。そこには、柏葉が死んだこと、バンドとしての活動は無期限休止だということが、はっきりと書かれていた。何度読み直しても、同じことがはっきりと書かれていた。


わたしは、トイレに駆け込んで泣いた。柏葉の死を認識してしまうと、涙が溢れてきた。涙をぬぐいながら、どうして人は死んでしまうのだろうかと思った。もっと率直に言えば、なぜ死ななくてはならないのだろうと思った。人間はどれだけ人に愛され、楽しく生きようと、この世に瞬間に死が約束されている。生物の背後には平等に、死が覆いかぶさっているのだ。


そんな当たり前のことが、今はとてつもなく理不尽なことに思えてしまった。罪を犯していないのに、人はなぜ死ななければならないのか。なぜ、こんなにも悲しい気持ちにならなければならないのだろうか。


わたしはじめじめとしたトイレの中で一人、この世の摂理をはち切れんばかりに呪った。







午後になって雲行きが変わり、雨が降り始めた。空は黒く淀んで厚い雲に覆われている。降り注ぐ雨粒はそれなりに大きく、校庭の木々をじっとりと濡らしていた。


わたしは誰もいなくなった放課後の教室で、雨に濡れる校庭を眺めていた。体に力が入らず、帰る気になれなかったのだ。頭が真っ白で、もう訳がわからなかった。


空いたドアからふと廊下を見ると、ちょうど通りかかった見知らぬ先生が、こちらを怪訝な目で見て、通り過ぎて行くのが見えた。わたしはその一連にすら傷心してしまって、机に突っ伏した。「何やってんだろうな」そう思った。


力を入れて立ち上がり、スクールバッグを肩にかけて昇降口へ向かった。帰って、都留の絵を見たいなと思ったのだ。彼の絵を見れば、何か気持ちに変化が起きるかもしれないと期待してもいた。


昇降口を出ると、スクールバッグから折り畳み傘を取り出した。それを開き、歩き出す。それから何となしにスマートフォンを開くと、待ち受け画面に設定していた都留作のわたしの似顔絵が表示された。面長の輪郭、少し垂れた大きな目、少し高めの鼻、肩のあたりまで伸ばした黒い髪。去年の誕生日に鉛筆で描いてくれた似顔絵だ。よく特徴を捉えている。都留は、わたしをよく見てくれていたのだなとは、今更ながら思う。描いてくれた当時は嬉しくて絵の質にはあまり触れなかったが、日々わたしをよく見てくれていなければ、ここまで特徴を捉えて描くことはできないだろう。わたしはありがたい気持ちになった。都留、ありがとう。


少し温かい気持ちになり、スマートフォンをしまおうとしたところで、それが振動した。着信だろうか。スマートフォンを起動すると、エイちゃんからの着信だった。確か今朝、都留はエイちゃんに会うと言っていなかったか。なんとなく嫌な感じがした。画面を操作し、着信に応じる。


「もしもし、依斗か?」


「もしもし。エイちゃん、どうしたの?」


「ちょっと、都留がどこ行ったか知らねえか? 今日、会う約束してたのに、全然連絡つかねえんだよ。なんか知らねえか?」


エイちゃんの声には、明らかに焦りが滲んでいた。電話越しでもわかるくらい、息も荒い。わたしの胸は、鈍く痛んだ。


「わからない。朝、エイちゃんと会うって聞いてたから、てっきりもう会ってるのかと思ってた」


「それが、連絡つかねえんだ。依斗、今どこだ?」


「学校にいる」


「わかった。じゃあ、一旦お前ん家行くわ。そこで落ち合おう。部屋にいるかもしれねえし。それで良いか?」


「わかった。急いで帰る」


心臓の鼓動がうるさい。焦りと不安で脳みそが割れそうで、わたしは奇声を上げて倒れてしまいたい気分だった。都留に限ってそんなことはないはずだ。わたしはかろうじて自分にそう言い聞かせ、走って駅へ向かった。


雨が勢いを増していく。雨粒が傘を殴るたび、わたしの焦燥感はじわじわと募っていった。

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