70①
「こんなに大学の近くにあるなんてね」
ギターケースを背負ったゆづくんが小さく笑いながら、こちらを見た。
その柔らかな表情はこちらを和ませてくれるが、会うたびに頭上の数字が減っていくことに変わりはない。この一週間は毎日ゆづくんに会っていたが、その頭上の数字は当然毎日減っていて、わたしは会うたびに暗澹たる気持ちになっていた。
どうしてこんな能力を持ってしまったのだろうか、と現実を呪いたくなる。
「こんなに近くにあるなんてね」
「運が良いというか。灯台下暗しって感じ」
「御茶ノ水の楽器街にも歩いて行けるし、うちの大学はバンドやるには良いのかもね」
「そうだね。環境には恵まれてるよ」
わたしたちは、エイちゃんを誘ってスタジオに行くことになっていた。それで大学近辺にスタジオはないかと調べたところ、徒歩数分の場所にスタジオがあるのを見つけたのであった。
「ゆづくんは、スタジオ行くの初めてなんだっけ?」
「初めてだね。ギター弾くだけだったら、アンプにヘッドホン繋げば家でできるし、スタジオはセッションする場所っていうイメージが強かったから」
「セッションか。ちゃんとできるかな」
「イトはどれくらい弾けるようになったの?」
「一応、Spring storyはちょっと弾けるようになったよ。間奏はまだちょっと怪しいけど」
「へえ、上達早いね。イト、器用なんだね」
「器用なのかな。わかんないけど、とりあえずベース弾くのはやっぱり楽しいよ。きっかけをくれてありがとうね」
「いやいや、お礼を言うのはこっちだよ。今日だって、イトがベースを始めてくれなければ、こういう予定になってないわけだし。こちらこそありがとうね」
わたしが言うと、ゆづくんはまた小さく笑って、肩にかかっているギターケースの紐を触った。雲ひとつない空は、高く澄んでいた。
「ういーっす。久しぶりー」
やって来たエイちゃんが、軽い声を出した。それを聞いたゆづくんの表情が明るくなる。いよいよセッションだ、と心を躍らせているのだろう。
「瑛人さん、お久しぶりです」
「おう。元気してたか?」
「ぼちぼちやってますよ。瑛人さんはどうでしたか?」
「俺もそんなとこだ」
安否確認を終えると、二人は笑い合った。
「じゃあ、早速行くか。俺、今日に向けて結構練習してきたんだ」
「ありがとうございます。行きましょう!」
ゆづくんは張り切って、スタジオの入り口の扉を開けた。
スタジオに入ってからは、受付を済ませ、指定されたCの部屋に入る。このさほど大きなスタジオではないようで、受付とスタジオは目と鼻の先だった。
そしてCの部屋のやたらと厚い扉をゆづくんが開け、わたしたちは中に入っていった。スタジオには大きなドラムセットと壁一面の鏡。そしてその前にある、VOXとマーシャルの大きなアンプが印象的だった。
「スタジオだー!」
ゆづくんは入るなり、無邪気な声でそう言った。そして、部屋を見渡し、奥にある鏡に映る自分の姿にちょっとだけ赤面して、恥かしげに笑った。
「俺も、本物のドラム叩くの初めてだから、テンション上がるな」
エイちゃんはかばんからスティックを取り出し、ドラムの前にあった椅子に座っては、楽しげに笑っていた。
「エイちゃんは、電ドラやってるんだっけ?」
「そうだな。さすがに、本物は家に置けないから。楽しみだわ」
エイちゃんは言ってから、右手のスティックでハイハットを数回鳴らし、それから、ドン、タン、ドドタン、と小気味よくエイトビートを叩いた。スネアの乾いた音が、スタジオに響く。
「おお、生エイトビート!」
「いいね。やっぱ楽しいな」
エイちゃんは声を弾ませ、またエイトビートを叩いた。ゆづくんはアンプをいじりながら依然楽しげで、わたしまで楽しい気持ちにさせてくれる。胸が少し軽くなる。とても心地良い空間だと、率直に思った。わたしも、壁際にあった黒くて大きなアンプをベースにつないでみる。そして主電源を入れると、アンプから、ぷちぷちと小さなノイズが漏れた。
わたしも適当に音を出してみようとしたところで、鏡の前に置いてあったアンプから、鋭いギターの音が流れてきた。見れば、肩からギターを下げたゆづくんがピックを持ってストロークをしているところだった。赤白のカラーリングの丸みを帯びたボディ。じゃくじゃくとした金属的な音。ゆづくんはわたしでもわかるくらい有名な、テレキャスターというギターを背負って、満面の笑みを浮かべていた。
「すげえ! スタジオ楽しい!」
「早えよ、まだセッティングしてるだけだぞ?」
ゆづくんはエイちゃんにそう言われても、笑顔を崩さないで、何度もストロークした。その音はしっかりとスタジオに響いて、ゆづくんは楽しげに笑っていた。
「こいつ、テンション上がりすぎて死ぬんじゃねえの?」
エイちゃんが笑いながらそうつぶいた。確かに、セッティングでこの調子では、音を合わせてみたらどうなってしまうのだろうとは思う。
「まあ、いっか」
エイちゃんも楽しげに笑った。幸せな空気感は、依然スタジオに、ふんわりと溢れていた。
「もう、毎日来たい!」
楽しげなゆづくんを見る。頭上に浮かぶ「70日」の意味を、今は考えないことにした。




