83
数メートル先の黒板の前で、中年の男性教授がぺちゃくちゃと喋り散らかしていた。
黒板に読みにくい汚い字を書き、その字をチョークでがしがしと示しながら、メッセンジャーRNAについて熱弁している。メッセンジャーRNAにさして興味はなかったが、これだけ熱弁をしている人の話を聞き流すのは気が引ける。わたしはノートに要点を書きながら、あくびを噛み殺した。わたしは、今日から始まった、教養科目の生物学を受講していた。
「というわけで、メッセンジャーRNAは西遊記でいうところの猪八戒。わかったかな?」
中年で細身の男性教授は、脂汗をかきながら声を裏返した。そして持っていたハンカチで額をぬぐい、またチョークを持って熱弁を始めた。鼻にかかった、高い声だった。その声がマイクに乗って、講堂に響いている。聞きやすくはないが、よく通る声だなとは思った。
メッセンジャーRNAについての熱弁があらかた終わったところで、講義の終わりを告げるチャイムが鳴った。キーンコーンカーンコーンと、呑気な音が講堂に響く。それに反応して、中年の教授は講義をやめる。
「それでは、今日はこれで終わります」
それを聞くと、学生たちは一様に荷物をまとめ、ぞろぞろと講堂を出て行く。特に前評判を聞かずに履修登録をした生物学の講義だったが、広い講堂にはそれなりに多くの学生がいた。
聞いた話によると、比較的単位取得が楽な講義は受講生も多くなるとのことだったから、この生物学はそれなりに楽な講義なのかもしれない。その辺りは定かではないが、わたしもノートと筆箱をトートバッグにしまって席を立った。今日はこの四限の生物学で終わりなので、今日はもう帰るつもりだ。わたしは肩にバッグをかけ、出口へ向けて歩いていく。
「おーい、イトー」
あと一歩で講堂を出る、というところで、後ろから覚えのある声が聞こえてきた。振り向くと案の定と言うべきか、白いシャツを着たゆづくんが立っていた。
「あ、ゆづくん」
「イトも、生物学取ってたんだね」
「そうなんだよね。そういえば、履修の話全然してなかったね」
「イトはどんな感じで取ったの?」
「特に評判とかは聞かずに適当に取ったかな」
「へえ、なんか難しそうなのいっぱいあるな」
わたしたちは、講堂の外を歩きながら、お互いの時間割表を見せ合った。目についた面白そうなものを取ったというゆづくんの時間割は、哲学や文学といった、人文学系の講義が多かった。
「ゆづくんは、今日はこれで終わり?」
「そうだね。イトは?」
「わたしも終わりだよ」
「バイトとかは?」
「今日はないよ」
わたしがそう答えると、ゆづくんは歩きながら一呼吸置いた。
「もし良かったらさ、これからどっか行かない? 無理にとは言わないんだけど」
ゆづくんはそう言ってから、目線を逸らしてしまった。それに合わせて、頭の上に浮かんでいた「83日」も少し向きが変わる。
「いいよ、どこ行く?」
「できれば大学近辺がいいけど、イトはどっか行きたいところとかある?」
「特にはないけど、大学入って間もないし、適当に探索してみるのも良いんじゃない?」
「それでいこうか。それで、面白そうなところがあれば入ってみよう」
わたしたちの通う大学は、東京の文京区にある。20分ほど歩くと神田や御茶ノ水の界隈に着くので、その辺りまで歩けば何か面白いものがあるだろうとは思っていた。
「そうだ、せっかくだから、御茶ノ水駅前の楽器街行ってみる?」
「あ、それ良いね。色々楽器見ようよ」
歩きながら、行き先はあっさり決まった。それで足取りは少し軽くなって、わたしたちはそれなりに大きな歩幅で御茶ノ水駅を目指して歩いた。
「あれから、ベース弾いてる?」
「一応、毎日触ってるよ。教則本見ながらやってるけど、やっぱり結構難しいね」
「最初は、やっぱり難しいよね」
「ゆづくんは、ギター弾けてる?」
「うん、もうバキバキ」
唐突にわけのわからないことを言うので、わたしはつい吹き出してしまう。
「何、バキバキって」
「まあ、ちゃんと弾けてるってことだよ」
ゆづくんは少し恥ずかしそうにしていた。
「ちょっとずつだけど、自分で曲も作ってみてるんだ。音楽理論も全く知らないし、ギターもまだまだだけど、できる範囲で」
「へえ、すごい。曲って作れるもんなの?」
「堂々と作曲してますって言えるほど大層なものじゃないけど、一応ね。やっぱり、ギター始めたのって、静田さんみたいに、自分の曲を思いっきり弾いて歌いたかったからっていうのが大きいから」
ゆづくんは依然恥ずかしそうに、しかしはっきりとした口調でそう語ってくれた。しかしその間にも「83日」の文字ははっきりと浮かんでいて、わたしはやるせない気持ちになる。死神というのは、憑く人の人格を全く考慮しないのだ。
「素敵だな、そういうの。わたしって、今までこれといった特技とかなかったから、そうやって何かを表現しようとする人は尊敬しちゃうな」
「なんだか、そう言われると照れちゃうな」
ゆづくんは言葉通り、恥ずかしそうに笑った。そうしてわたしたちは、御茶ノ水駅前に着き、最初に目についた楽器屋に入る。入り口のスピーカーからは、聴いたことのない邦ロックバンドの曲が流れていた。
「ゆづくんはさ、どういうきっかけでナンナンを聴き始めたの?」
立ち並ぶギターとベースの数々に心を躍らせつつ、前々から気になっていたことを尋ねてみる。ゆづくんはポケットに手を突っ込みながら、オレンジ色のレスポールタイプのギターをぼんやり眺めていた。
「たまたま流れてきたんだよね。高二の時、ちょっとむしゃくしゃしてた夜にラジオ聞いてたらさ、リスナーのリクエストで、確か「Spring story」だったと思うんだけど」
「Spring story」は、三枚目のアルバムに収録されている、彼らの代表曲の一つだった。
「家の近くの川の土手で寝っ転がってさ。空気が澄んでて、星がよく見えて、で、耳元ではばちばちのロックが鳴ってて。それで、すごい気持ち良くなって、次の日にはハマってた」
「なんか、かっこ良いハマり方だね。誰かに勧められたんじゃなくて、自分から見つけたんだ」
「かっこ良いかな? イトはどんな経緯でナンナンにハマったの?」
ゆづくんはポケットから手を出して、わたしにそう尋ねた。わたしは少し頭の中を整理してから、口を開く。
「お兄ちゃんに勧められたんだ。このバンド良いよって。それで聴いてみたら、本当に良くて。そっからはファンになってた」
「へえ、お兄さんがいるんだ」
「そうなんだよね」
胸がちくりと痛んだが、表情に出すわけにはいかない。
「お兄さんとは、仲良いの?」
「多分、ね」
「へえ、何歳離れてるの?」
「一つ上」
「じゃあ、瑛人さんと同い年か」
「そうなるね」
ゆづくんはわたしに質問しながらバツが悪くなってしまったのか、少し間を置いた。わたしはそれに申し訳なくなる。ゆづくんの頭上に浮かぶ「83日」は、相変わらず禍々しい。
「それはそうと、さ」
「うん」
「今ゆづくんが作ってる曲って、どんなテイストなの? やっぱりオルタナなの?」
そう尋ねると、ゆづくんはわたしの方を見て、表情を解いた。
「一応オルタナになるのかな。ミドルテンポのザギターロック、みたいな曲にしたいなとは思ってるよ」
「へえ、楽しみ。完成したら、聴かせてね」
「うん、もちろん」
ゆづくんは笑って、それからは並ぶギターを眺めた。大好きなギターに囲まれて、彼は安心したように笑っている。わたしはそんなゆづくんを見つつも、頭上の数字はなるべく見ないように視線を下げた。楽しそうなゆづくんを見ながら落ち込んだ気分になるのは、嫌だった。
わたしは結局、何も買わずに楽器屋を出た。そして会計をしているゆづくんを待ちながら、夕暮れの駅前ぼんやりと眺めた。交差点では人が絶え間なく往来し、空ではオレンジ色の太陽が、その光をきらきらと湛えていた。世界は、街は、ゆっくりと回っている。
「お待たせ」
「何買ったの?」
「ピック。ちょうど、新しいのが欲しかったから」
「ちょっと見ても良い?」
「いいよ、大したもんじゃないけど」
小さな紙袋を受け取ると、そこには亀が描かれた白いピックと、鶴が描かれた水色のピックが入っていた。
「二個買ったんだ?」
「一個、イトにあげようと思って。どっちが良い?」
「いや、いいよ、気使わなくて」
「いやいや、ピックってそんな高いもんじゃないし、付き合ってくれたお礼」
「なんか、ごめん。ありがとう」
わたしは結局、鶴が描かれたピックを受け取って、それを右手に握った。それから交差点を渡り、御茶ノ水駅の水橋口の改札の前でわたしたちは立ち止まる。
「じゃあ、今日はお開きかな。ありがとうね」
「ありがとう」
「じゃ、また今度。次はスタジオにでも行きたいね」
「そうだね。じゃあ、また」
わたしたちは手を振って、別れた。大学近辺に住んでいるゆづくんは聖橋口の方面へ歩き、わたしは定期券をかざして改札を通った。ピピッと、電子音が鳴る。
中央線のホームに着くと、わたしは握りしめていた右手を解いた。
ピックに描かれたとぼけた顔の鶴が、手のひらの上で静かに佇んでいた。




