98②
わたしの家の最寄り駅にはほとんど何もないが、最低限の施設は揃っている。
それはファミリーレストランであり、カラオケであり、楽器屋であったりした。そしてどういうわけか、わたしは一日にして、そのうちの二つの施設を訪れた。一つはファミリーレストランで、もう一つは楽器屋だ。楽器屋に入るのは初めてだった。
色とりどりのギターとベースが並ぶ店内に、わたし思わず気分が高揚してしまう。わたしの他に客はいない。ところせましと並ぶギターやベースに囲まれていると、自分がミュージシャンにでもなった気分になるのでいけない。
「いつ来ても、楽器屋ってのは良いもんだな」
エイちゃんは呟いて、並ぶギターを眺めていた。隣を歩く石原君も楽しげに店内を見回していて、ひとまず楽器屋に来て良かったなとは思った。
「イト、気使わなくて良いからね。ベースって、安いもんじゃないから」
「いや、一応きっかけを探ってる部分はあったし、良い機会かなとは思ってるよ。メンバーがいるなら、始めても良いかなって」
石原君と話しながらも、わたしの視線は彼の頭上に浮かぶ「98日」に吸い寄せられてしまう。
「8割冗談で言ったのに、すげえ乗り気になったから、ビビったわ。依斗、お前いつのまにそんなにノリが良くなったんだよ」
「まあ、今回はノリとかではないよ。普通に、ベースやらなきゃって思ったから」
「やらなきゃって、すごい責任感だな、おい」
エイちゃんは、それから少し黙った。それからもしばらく店内を歩くと、店の奥の方で少し気になるベースを見つけた。わたしはその前で立ち止まる。
「これ、カッコ良いな」
水色で、ボディの一部が赤いベースだった。水色と赤という配色が鮮やかでかわいらしく、気に入ったのだ。
「依斗お前、良いセンスしてるじゃん」
「でしょ? これ、いくらなんだろう」
値札を見てみると、アンプなどがセットになっているもので4万円弱だった。
「まあ、安めではあるな」
「これ買ったら、これからバイト漬けだけど」
「もうここまできたら、買うしかないでしょ」
「まあでも、店員さんの話は聞きたいかな。ちょっと呼んでくる」
わたしは、近くにいた髭面で長髪の男性店員に声をかけてみる。いかつく恰幅の良い中年の男性だったが、声をかけるとにっこりと笑い、「女の子のベーシストって良いよねえ」と間延びした声を出した。そして、わたしたち三人を試奏スペースに案内してくれた。
「このモデルは弾きやすいし、初心者にも良いと思うよ。じゃあ、気になるだろうし、ちょっと音出してみるね」
そう言いながら、男性店員はベースとアンプをケーブルで繋いだ。そしてアンプのスイッチを入れると、ノイズがばちばちと音を立て始めた。わたしはそれに、かすかな高揚感を覚える。
「ベースって、よくギターと何が違うのか聞かれたり、地味って言われたり、散々なんだけど、ベースがいないとバンドは成り立たないし、何より本当に良い音が鳴るんだ」
そう言ってから、男性店員はピックを持ち、指を滑らかに動かしてベースリフを弾いた。胸の底を突くような、鈍く硬い響きだ。わたしはそれに、にわかに鳥肌を立てる。隣にいた石原君とエイちゃんの表情にも、興奮の色が伺えた。
「吹奏楽の楽器は何十万とするけど、このベースはだいたい三万くらい。でも、それはベースがそういう楽器と比べて劣っているとかじゃなくて、ベースも本当に良い楽器なんだよね」
そこまで言い終えると、男性店員はピックとベースをわたしに手渡した。わたしはそれを受け取り、肩にかけてみる。それで確かな重さが、肩にのしかかった。
「ちょっと、弾いてみなよ」
「はい、やってみます」
「好きな弦を押さえて、適当に鳴らしてみな。良い音鳴るから」
そう言われて、わたしは4つあるうち一番上の弦を適当な位置で押さえてみた。ある程度力を入れて押さえ、一番上の弦をピックで強く揺らす。
ビン、と鈍い音がなった。わたしはそれで、また鳥肌を立てる。CDで聴いていたような音を自分で出したのだという事実に、高揚感を覚えた。
石原君、もといゆづくんを見る。目の前には楽器があって、その楽器はバンドメンバーであるわたしのものになりそうである。いよいよ、念願のバンド活動ができる。そう思っているであろうゆづくんの表情は、楽しげだった。
わたしはそれに、ひとまず安心した。あと九八日の短い命。その命にささやかながら楽しい時間を添えられるのなら、四万円の出費も惜しくない。わたしは肩にかかるベースの重みを感じながら、小さく笑ってみせた。それでも相変わらず、ゆづくんの頭上には禍々しく「98日」が浮かんでいた。
「良いベースライフを」
先ほどATMから下ろした4万円を払い、店を出る間際、男性店員は満面の笑みでそう送り出してくれた。その笑顔にわたしは少し気分が良くなって、胸を弾ませながら店を出た。男性店員の頭上にはゴシック体で「38年」の文字が浮かんでいた。
「本当に買うとは思わなかったな。なんか、焚き付けて悪かったな」
「良いんだよ、エイちゃん。わたしも楽器は興味あったし、良い機会だよ」
「本当に、ありがとう、イト。大学入ってこんなに早く、しかもナンナン好きの人たちとバンド組めるなんて思わなかった」
「ゆづくんにそう言ってもらえて、良かったよ」
わたしはそれから、背中にベース、右手にアンプを持って家に帰った。
音楽機材はこんなに重いのかと衝撃を受けたのは、言うまでもない。




