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65①

一限の講義に出席するために、わたしは満員電車に乗っていた。大学の最寄り駅でもある御茶ノ水駅はビジネス街であり、そこへ向かう電車はたいへん混雑する。わたしはドア付近で人の圧を感じながら、イヤホンをはめていた。数字が煩わしいので目は閉じておく。


わたしは、Number‘s Numberの三枚目のアルバム、「色彩」を聴いていた。インタビューでもメンバーから「完璧」と評さるこのアルバムは、自他ともに認めるバンドの代表作だ。しかし一方で、全曲の作詞作曲を担当するギターボーカルの静田は、「このアルバムを超えるものが作れない」と苦しんでいたらしく、このアルバム製作以降はメンバーに強く当たることも増えていったという。そんな中作られた四枚目のアルバムは、今までにないエレクトロニカや民族音楽などを取り入れるも、商業的には振るわず。同年にギターの柏葉が急死したことが大きな要因となり、バンドは解散したのだった。


わたしが今、Number‘s Numberにここまで思いを馳せているのは、もちろんゆづくんの影響もあるのだが、今日が彼らのデビュー日だからだ。一二年前の今日、Number‘s Numberはメジャーデビューを果たしたのだ。それで、彼らのことを考えていた。


活動期間九年。リリースしたアルバムは四枚。その中で正統派ロックを鳴らし、強烈なインパクトを残した彼らは、電撃解散から三年経った今でも、ファンから再結成を待望されている。


「御茶ノ水、御茶ノ水」


音楽の合間を縫うように聞こえてきた車内アナウンスに反応し、わたしはスマートフォンをパーカーのポケットにしまった。そして乗客の流れに身を任せて電車を出ると、階段を上がって水橋口の改札を出た。午前八時過ぎの御茶ノ水駅前は、人々が次々と往来していた。


その人の流れに沿って、わたしは大学への道を歩いた。周囲には、当然ながら多くの学生と思しき若者が歩いていた。一限に向かう学生は案外多いのだな、とはこの時間に毎週思うことだ。そんなことを考えながら、信号待ちで止まる。


信号待ちになったところで。静田のクリーンなバッキングに、柏葉の金属的なアルペジオが乗っかった。わたしは、その良さを再認識し、気分が上がる。この音は、今でも全く色褪せない。またこの音が聴きたい。そう、強く思った。


信号待ちで暇なので、わたしはなんとなしにスマートフォンを開いた。そしていつもの癖でSNSのアプリを開くと、タイムラインにニュース記事が流れているのが見えた。わたしはその記事のタイトルに、目を疑った。「え」と声を漏らしてしまった。そして反射的にその記事を開いて、目を瞬かせる。もし事実ならば、信じられないくらい、嬉しいニュースだった。


タイトルは、「三年前に解散の人気ロックバンド、Number‘s Numberが再結成発表」だった。そして記事には、昨日の深夜に三人編成での活動再開が発表され、同時にライブツアーの日程と新曲の配信日まで発表されたと書かれており、最後には静田本人のコメントも紹介されていた。




去年の裕介の命日に思うところがあって、徹也とオオちゃんを呼び出して、僕から再結成の話をしました。二人も思うところがあったようで、その場でオーケーをくれました。今はメンバー皆バイタリティに溢れていて、バンドとしてもすごく良い状態です。皆様にその熱量を届けられる日が来るのを、楽しみにしています。




わたしは、その文章を読んだだけで、胸が存分に躍った。泣きそうにすらなった。柏葉というサウンドの核を失いながら再結成を決めた度胸と、文面から想起されるメンバーたちの苦悩。そして、文末に漂うメンバーたちの充実した様子。それらはわたしを大いに感動させた。ちくしょう、三年も待たせやがって。わたしは心の中で、そうつぶやいた。


信号は、気づいた時にはまた赤になっていた。それでも、わたしは一つも不機嫌にならず、耳元のギターワークにただ酔いしれる。この音がまた聴けると思うだけで、本当に幸せな気分だった。


空を見上げる。朝のさわやかな風が、わたしの髪を静かに揺らした。







チャイムが鳴ると、一限の政治学が始まった。白いワイシャツを着た男性講師が、教卓に置いたトートバッグから資料とチョークを取り出す。黒縁メガネをかけた、三〇代半ばくらいの細身の講師だ。これまで数回講義を受けていて、淡々とした語り口が印象的だった。内容も政治思想家の解説というなかなか興味深いもので、わたしはこの講義が結構好きだった。


「今日は、前回に引き続き、アリストテレスを取り上げます。前回のプリントを見てください」


袖を折ってまくってから、講師は表情を変えずに淡々と言った。講義が内容に入る。講師が几帳面に板書しながら、講義が展開されていく。


「アリストテレスの思想の基本は、生物学的なモデルにあります。植物のタネが萌芽して花を咲かせるように、すべてのものを段階的に成長するものと捉えています」


講師は矢印を用いながら、タネ、芽、花、と植物が成長していく過程のイラストを黒板に描いた。


「アリストテレスの議論によれば、人間もまた植物のように成長する存在と定義されます。人間個人にはそれぞれ、植物のタネが花を咲かせる力を秘めているように、国家を構築する力が秘められています。そして、この時代の人間は市民と奴隷に分かれ、家族、村、と共同体を作っていき、最終的には国家を作ります。この国家こそが人間の完全体、つまり植物で言うところの花ということになります」


講師は、先ほど描いた植物の成長過程のイラストの下に、棒人間が集団を大きくしていくイラストを描いた。わたしは講師の言葉をメモしながら、面白い考えだな、と感心した。人間の完全体が国家のような共同体だとは、なかなか思いつかない発想だろう。


「アリストテレスはこのように、人間は国家のような共同体を築いてこそ完全な姿であると議論しました。アリストテレスの著作の中の有名な文言として「人間は自然によってポリス的動物である」というのがあります。これは、簡単に言ってしまえば、人間はポリス、すなわち共同体の中でこそ完全な存在であり、個人では価値付けられないという意味になります」


講師の話は、なかなかに興味深いものだった。人間は共同体で価値付けられる。もっとわかりやすく言えば、人間は誰かと支え合ってこそ人間足り得るということだろう。確かに、そうかもしれないと思った。そして、それを古代の思想家が提唱しているのが、なんだか嬉しかった。バンドアンサンブルは、一人では完成しない。音楽も、聴いてくれる人との相互作用で価値付けられる。わたしが大好きな音楽だって、そうやって発展してきたのだ。


「古代ギリシアは、個人がポリスに貢献し、成果を残すと、精神的不死が得られるという感覚があったと言われています。こう言った感覚も、共同体に重きを置いていた古代ギリシアの人々らしい考え方と言えますね」


講師が言いながら、几帳面な字で「精神的不死」と書いた。わたしはその字を見ながら、ゆづくんに思いを馳せた。彼の音楽が残れば、彼が死んでもわたしたちの中で生き続ける。それをゆづくんが望むのならば、わたしはそれをサポートしたい。今は、そう思った。


「あ、それと。大変私事ですが、今朝私の好きなバンドが再結成を発表していてですね。いつもより三割増しで気分を高めながら話しております」


板書を終えた講師が相変わらず抑揚なくそんなことを言い出すので、わたしは思わず声を上げそうになってしまった。こんな真面目そうな講師でも、Number‘s Numberの再結成を喜んでいるのだ。わたしはその意外性に嬉しくなる。やっぱり、皆待っていたのだ。


わたしは胸を弾ませて、リズミカルに黒板の文字を写していく。几帳面な黒板は、写しやすくて助かった。

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