1193②
「すまん、遅れた」
家の門の前で待っていると、エイちゃんが走ってこちらにやって来ていた。傘はさしていたが走っていて機能しておらず、髪は濡れていた。わたしの前で止まると、エイちゃんは膝に手をつき、肩で息をした。その表情はよく見えなかったが、肩で息をする姿からは、彼の焦燥感がよく伝わってきた。
「風邪引くよ、そんなんじゃ」
「俺が風邪引いたってどうでも良いんだよ。早く、都留を」
「どうでも良くない。体拭いて。自分のせいでエイちゃんが風邪引いたら、都留も嫌がるでしょ」
バッグから取り出したタオルを渡すと、エイちゃんは口を結び、受け取った。
「やっぱ、あいつの妹だな」
「気配りが段違い」
「今は、褒められてもうれしくないな」
「ちょっとは喜べよ」
わたしたちは、ゆっくりと家に入っていった。糸魚川宅は二階建ての一軒家で、二階が子供部屋になっている。階段を上がって左手にあるのがわたしの部屋で、右手にあるのが都留の部屋だ。わたしたちは階段を上がり、右手にある都留の部屋のドアに手をかけた。
銀色の手すりを下げて、押す。ドアが開き、わたしたちは部屋に入っていく。部屋には、絵の具のぺたりとしたにおいが充満している。いつものにおいだ。昔買った学習机も、薄い水色の青い布団も、いつも通りそこにあった。違うのは、初めて見る一枚の画用紙に描かれた絵が、無造作に床に落ちていることだった。
絵は、油絵の具で描かれた都留の自画像だった。胸から上が描かれており、目元は黒い絵の具で荒っぽく塗り潰され、手は自らの首を絞める格好で描写されていた。口からは紫がかったピンク色に塗られた舌が垂れるように飛び出ており、背景のピンクや青紫といった色彩も相まって、全体的にサイケデリックな印象を受けた。全体的にタッチは荒く、繊細なタッチを得意とする都留が描いた絵には、到底思えなかった。
その絵を見て、わたしは率直にぞっとしてしまった。そして、その悪寒が現在の状況と混じり合い、わたしは酷く動揺した。早く都留に会わなければ。そう、強く思った。
「あいつ、今までこんなの描いたことなかったよな」
「なかった。こんなベッタベタに塗った絵なんて。それに、朝言ってたんだ。表現したいことは表現できたって」
「マジかよ、もう、意味わかんねえよ」
エイちゃんは、頭を掻きむしった。その仕草に、わたしの動揺はさらに増していく。先ほど湧いて出た不安はもくもくと暗雲になり、じっとりと胸を支配していた。
わたしは、なんとなしに絵を拾った。そしてそれを再度見ると、裏に何か文字が書かれているのに気がついた。嫌な予感がした。見たくなかった。しかし、そこに何か手がかりがあるとも思った。わたしはおそるおそる画用紙を裏返し、文字列を目で追った。
この文章は、一度家に帰ってきてから書いています。これを読んだら、すぐに瑛人に連絡してあげてください。僕は裏の山で首を吊ります。
正直、僕は柏葉さんが羨ましい。大いに意味のあるものを残して、濃く、愛されながら死んでいく彼が本当に羨ましい。僕は誰かに見つけて欲しくて絵を描いていたけれど、見つけてくれたのは依斗と瑛人だけだった。意味のあるものを残せる人は、ほんの一握りなようです。僕は違った。ただそれだけのことでした。
僕は、無責任に僕を生んだ両親を憎みます。もしこの世に生まれつくか否かを選べたのならば、きっと生まれてこないことを選んだと思います。生まれて来なければ、初めから喜怒哀楽も、依斗も瑛人も知らないままなんですから。
この絵は『ジカイ』といいます。今の僕にはこれが限界です。僕の人生そのものを表現したつもりです。
最後に。依斗、今までありがとう。それと、こんな兄でごめんなさい。君には、こんな僕は忘れて、幸せになってほしいです。
ロックンロールは終わらない。終生、変わらぬ日々を。
糸魚川都留
読み終わる頃には、涙で視界がぼやけて、絵をしっかりと視認できなくなっていた。今まで都留はこんなことは一言も漏らしていなかった。それに気づけなかった自分に腹が立つし、都留にこんなことを書かせた世界を、わたしは許したくなかった。わたしはその場にへたり込んだ。無力感と責任感で、どうにかなってしまいそうだった。
「おい、依斗……どうしたんだよ」
エイちゃんが言う。その方向を見上げると、そこで初めて、彼の頭上に「59年」の文字が浮かんでいるのを見た。
◯
遠くで静かに、白い煙が立ち昇っていた。わたしとエイちゃんはベンチに座り、喪服姿でそれを眺める。細く頼りない煙は、それでも確かに空へ向かっていた。向かうなよ、と率直に思った。わたしを置いて、空に向かうな。胸の中で、言えない思いを叫ぶ。
「一八年も苦しみながら生きてもさ、弔われるのは儀礼的なたったの数十分って、なんだかあんまりだよな」
隣のエイちゃんが、つぶやくように言った。力のない顔は青白く、不健康そうな雰囲気が漂っている。
「もう、こんなのはあんまりだよ。わたしの前で、もう誰も死んで欲しくない」
「そんなの、誰だって同じだよ」
「救えたのかな、わたしがなんとかしてたら」
「そんなの、わかりっこないだろ。依斗は、自分を責めるな。お前は優しすぎる」
エイちゃんは言ってから、大きなため息をついた。立ち昇っていた煙は、未だ白々しく空へ向かっている。
「でもさ、救える人は救いたいんだ。わがままなんだけどさ。わたしの前に現れた以上、絶対死ぬんじゃねえぞって、思うんだ。その人を救いたいんじゃなく、死んだらわたしが悲しいから」
「だからやっぱり、お前は優しすぎる」
「優しくないよ。ただのエゴ」
この日は、都留の葬式が行われた。両親と、正月にしか会わない親戚と、友人としてただ一人エイちゃんが来て、式は行われた。親戚は、皆一様に神妙な表情を作り、両親は怒りを覚えていたのか、ずっと唇を噛んでいた。そして式が終わると、母はわたしに「バカみたいね」とだけ仏頂面で言って、どこかへ消えていった。最低の親だ、と心底思った。
「俺は、あいつの分まで楽しく生きてやろうと思ってるよ。そんで死んだ後天国であいつに会って、言ってやるんだ。お前はもったいないことしたなって。生きてりゃ、もっと楽しめたのになって」
「エイちゃんは、強いね」
「そうすることでしか、あいつに後悔させることしかできないだろ。俺は、あいつに腹が立ってるんだ」
そう言ったエイちゃんの頭上には、やはり「59年」の文字が浮かんでいる。
わたしは初め、その数字が何を意味しているのかわからなかった。しかし、頭上に「6日」と会った向かいの家のおばあさんが、ちょうど六日後に亡くなり、わたしはその数字の意味を理解した。頭上の数字は、その人の残りの人生を表しているのだ。
「エイちゃんは、あと五九年の間に色々できると良いね」
「は? 五九年ってなんだよ?」
「エイちゃんは、あと五九年生きる。頭の上に書いてある」
「お前、何言ってんだよ」
「わたしさ、都留が死んでから、見えるようになったんだ。その人があと何年生きるか。信じないなら、それはそれでいいけどさ」
エイちゃんは肘を膝に起き、腕を垂らしながら、戸惑いの表情を浮かべた。突飛なことを言い出したわたしに、どう返すべきか。それを考えているのだろう。
「まあ、なんでもいいや。じゃあ俺は、その五九年を楽しみ倒してやるんだ。とにかく俺は、早死にした都留を後悔させてえんだ。ムカつくからさ、俺は」
エイちゃんが絞り出すように言った。そして一つ咳き込むと、彼は大きく鼻をすすった。
「だからさ、今日くらいは泣いても良いよな」
エイちゃんはまた鼻をすすり、目元を袖で拭った。彼は涙を流している。わたしもそれにつられて、鼻の奥がつくんと痛んだ。目頭も熱い。今日だけは、泣いても良いと、そう思った。
一つ、咳き込む。
「都留の、バカヤロウ!」
わたしたちはそう叫んで、遠くの空を見上げた。
白煙は、いつのまにか消えていた。
◯
ゆづくんは自分の死生観を話し終えると、俯いたまま動かなくなってしまった。わたしたちの反応を見て、発言を悔いているのかもしれない。わたしは彼のすぐ横まで近づいて、肩に手を置いた。ゆづくんがはっと顔を上げる。
「ゆづくんはさ、例えば今死んでも、後悔しないって言い切れる?」
ゆづくんはわたしを見て、またすぐに俯いてしまった。
「今のままだったら、少し後悔があるかもしれない」
「どうしたら、後悔しない?」
「僕には、人生のうちどうしてもやりたいことが二つあるんだ。一つは、もう一度ナンナンのライブに行くこと。もう一つは、自分のバンドで自分の曲を完成させること。これができたら、きっと、死んでも後悔はないと思う」
「本当に、その二つだけなの?」
「それだけできたら、とりあえずは」
「わかった」
わたしは、深呼吸をした。目を閉じる。脳裏にはサイケデリックな都留の自画像とか、高校時代に待ち受け画面にしていたわたしの似顔絵とか、あの当時の記憶が浮かんでいる。胸がじんと痛む。わたしはそれをかき消すように、もう一度深呼吸をした。
「じゃあ、できる方からやろう、責任持つよ。「Spring string」、完成させよう。絶対、約束」
わたしが急に大きめの声を出したので、ゆづくんは驚いて顔を上げた。ゆづくんは唇をへの字に曲げている。わたしは努めて笑った。
「じゃあ次、いつスタジオ行こうか」
「……もう次のこと決めるの?」
「時間は有限なんだよ、ゆづくん。善は急げだって」
「……じゃあ、来週の土曜とか……?」
「よし、じゃあ土曜行こう。エイちゃんも来れるよね?」
エイちゃんの方を見ると、彼は戸惑いつつも「おう」と頷いた。
「さっきまで黙ってたのに、どうしたんだよ、依斗。なんか考えてたのか?」
「わたしの髪が、まだ長かった時のことを思い出してた」
わたしが言うと、エイちゃんは小さく笑った。そして、ビールの缶を持つとぐびぐびと飲み、それから缶を置いた。
「イトって、昔は髪が長かったんだ」
「まあ、ね。もう昔のことだけど」
わたしが言うと、ゆづくんは首を傾げた。控えめに笑うその姿は、やはり都留を彷彿とさせる。
「でもなんだか、今の僕は短い方が似合ってるような気がするなあ」
「ありがとう。わたしもそう思う」
わたしが笑ってみせると、ゆづくんはぽっと顔を赤くした。
「まあじゃあとにかく、来週の土曜はスタジオっていうことで。よろしく、うん」
「よろしくね」
「よろしくな」
ゆづくんは依然顔を赤らめたまま、わたしとエイちゃんの返事に頷いた。壁際、本棚の前、ギタースタンドに佇むテレキャスターが、赤く輝いていた。