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春うらら、とまでは言わないが、それなりに爽やかな空気が、大学構内に漂っていた。
辺りを歩く人々も皆一様に楽しげに、会話に花を咲かせている。その会話の内容にさして注目はしなかったが、楽しげなのはとても良いことだ。そうして、わたしは大学構内を歩いていた。騒がしい男子学生のグループの横を通り過ぎる。わたしと同じ新入生だろうか。大口を開けて笑う様は、どこか青い印象を受けた。
男子学生たちの頭の上にはそれぞれ、「69年、65年、81年」という赤いゴシック体の文字が浮かんでいた。彼らは相当な長生きらしい。わたしは意味もなく安心した。特に「81年」の文字が浮かんでいる金髪の彼はかなり長い人生が待ち受けている。今、金髪の彼が18歳だとすると、何も起こらなければ99歳まで生きることになるのだ。是非とも、長い生涯を全うして欲しいものである。
わたしは、自分が好む好まざるにかかわらず、見た人全員の残りの人生があと何年かがわかる目を持っている。その能力は3年前のとある出来事から現れたのだけれど、とにかく、行き交う人全員の寿命がわかってしまうのはとても辛いことだ。先ほどの男子学生グループのように残りの寿命が長い人ならばまだ良いのだが、寿命が短い人の数字を見てしまうと暗澹たる気持ちになる。自分にはどうすることもできないが、死はその人の背後に確実に貼り付いている。その無力感が、たまらなく辛いのだ。
若者の多い大学でそういう思いをすることは少ないと思っていたが、この前受けたガイダンスの中年の教授の頭上に「1年+121日」の文字が浮かんでいて、胸が苦しくなった。ガイダンスでの様子がとてもハツラツとしているのが、よりわたしを苦しめる要因にもなっていた。
わたしは大学構内を歩いて、食堂へ向かっていた。まだ始業して間もないため、早いところ大学の施設に慣れておきたい気持ちがあったのだ。だから、まずは手始めに、昼休みに食堂へ向かっていた。人の多い場所はそれだけ見える寿命の数も多くなるのであまり行きたくはなかったが、今後はそうも言っていられない事態もあるかもしれない。大学生であるのうちに人の多さに慣れておくのも必要だと思った。
食堂に着いて中に入ると、そこには既にとてつもない人の波が形成されていた。見たところ席はほとんど埋まっていたし、注文を待つ列は長蛇の列となっていた。溢れんばかりの声と数字にうんざりしたが、わたしは一応お盆を取って列に並んだ。それから注文したカレーライスを受け取れたのは、およそ20分後のことだった。
「俺、なんか母ちゃんより早く死ぬ気がするわ。てか、死んでやる」
ずっと前に並んでいた男子学生はそう言っていたが、その頭上には「85年」という数字が浮かんでいた。
◯
やっとこさカレーライスを受け取り、わたしは混み合った食堂で空いている席を探していた。しかし、探せど探せど相席せずに済む席は見つからず、わたしはしばらくの間カレーライスを持って食堂をうろつくことになった。スパイスの香りが鼻をつく中、食堂は赤いゴシック体の数字で溢れかえっている。次から食堂を使うのはやめよう。歩きながらうんざりしてしまって、わたしはそんなことを思った。
食堂を一周して、結局入り口付近に戻ってきてしまったところで、わたしは諦めて相席を検討することにした。そうでもしなければ、席を確保できないように思えたのだ。わたしは再度空席を探した。食堂に来るまで少しはあった楽しみな気持ちは、跡形もなく消えてしまっていた。
しばらく食堂を見回していると、無数の赤い数字の中に一つ、三桁の数字列があるのに気がついた。わたしは驚いて、その三桁の方へもう一度振り向いてしまった。大学生の年齢から100年以上生きるのならば、世界最高齢も夢ではないだろう。わたしは驚くとともに、どこか期待をしてもいた。
それから、わたしは一つ息を飲んだ。
振り向いた先には、「100日」の文字が浮かんでいたのだ。いつもの赤いゴシック体ではなく細い明朝体で、弱々しく。その文字の下では、白いトレーナーを着た男子学生が、一人定食を食べていた。箸でそっと小さく白米をつまみ、それを口に運んでいる。そこに当然思いつめた様子はなく、何食わぬ顔で食事をしていた。わたしはその姿から目が離せなくなってしまって、その場にしばらく立ち尽くしていた。その男子学生は二人用のテーブル席に座っていて、正面は空席になっていた。
「あの、座ります?」
その声にはっとして、わたしは意識を戻した。正面では「100日」の男子学生が、訝しげにわたしを見ていた。
「すみません、ちょっとぼおっとしてて……」
「別に、座るなら座っても良いですけど」
「じゃあ、失礼します……」
それから、わたしは男子学生の正面に座った。お盆を置いて、椅子を引く。正面に座ると、男子学生は確認するように、ちらりとわたしを見た。
「食堂、混んでますよね。僕はガイダンスがちょっと早く終わったので座れましたけど」
男子学生はよく通る声柔らかいでそう言った。正面に座ってみると、男子学生はあっさりとした顔立ちをしていた。色白で切れ長の目をしていて、少しパーマのかかった黒い髪が良く似合っていた。
「わたしは、ちょっとガイダンスが長引いたので、ちょっと厳しかったですね」
「一年生ですか?」
「はい。あなたは?」
「僕も一年生です。法学部」
「そうなんですね。わたしは文学部です。中国語学科」
「へえ、レアキャラ、ですね」
唐突に放たれたポップな言い回しに、わたしは思わず吹き出しそうになる。
「レアキャラ、ですかね?」
「なんか、どっかで中国語学科は少ないって聞いた気がします。よく覚えてないですけど」
「一応、文学部だと哲学科が一番少ないらしいですね」
「へえ、そうなんですね。確かに、哲学科ってあんまり多くはなさそう」
「どうやら、そうみたいです」
一通り会話をすると、わたしたちはそれぞれ食事を始めた。わたしはスプーンを、男子学生は箸を持ち、食べ進めていく。男子学生が箸でつまむ一口は、相変わらず小さい。体も細いから、少食なのかもしれないとぼんやり思った。
「サークルとか、決めてますか? わたし、あまり考えられてなくて」
何か話題をと思って、話を振ってみる。男子学生の頭上にはやはり「100日」の文字が浮かんでいて、それが目についたわたしは、胸が痛む。
「いや、全然決めてないですね。一応何個かは見に行きましたけど」
「へえ、まだ勧誘始まってないのに早いですね。どんなサークルを見に行ったんですか?」
「一応楽器やってるんで、軽音サークルに見に行きました。でも、しっくりこなくて。いわゆる音楽性の違いってやつです」
男子学生は言ってから、少し恥ずかしそうに口をすぼめた。その仕草がちょっと可笑しくて、微笑ましい。
「なんだか、音楽性の違いってかっこ良いですね。一生に一度は言ってみたいセリフです
」
「ああ、ちょっとカッコつけました。言っちゃえば、俺の好きな音楽の範囲とサークル全体の好きな音楽の範囲が違ったってだけです。趣味が合わなかったっていうか」
男子学生は少し早口になっていた。
「どの範囲の音楽が好きなんですか?」
わたしも、音楽を聴くのは結構好きな方ではあったので、興味はあった。
「えっと、Number‘s Numberって知ってます? そこから半径数メートルの範囲です」
男子学生は不安げだったが、わたしは確かな胸の高鳴りを感じた。彼の挙げたバンドが、どんぴしゃで一番好きなバンドの名前だったのだ。
「え、マジ?」
「知ってます?」
「お言葉ですが、大好きです」
「あ、マジですか?」
男子学生は、表情を一気に解いた。わたしも、少しばかり興奮していた。三年前に解散したマイナーバンドが好きな人に、大学生活で、しかもこんなに早い時期に出会えるとは思っていなかった。
「え、じゃあその辺のロックは一通りお聴きになってる感じで?」
「そういう感じですねえ。ナンナンに影響を与えたバンドは、一通り聴きました」
「え、嘘。完璧じゃないですか」
男子学生は隠している風ではあったが、表情には笑みがこぼれていた。
「え、名前なんていうんですか? メアド交換しましょうよ。今までナンナン好きに会ったことなかったから」
「良いですよ。わたし、糸魚川依斗っていいます」
「え、珍しい名前ですね。どういう字を書くんですか?」
「糸に魚に三本川でいといがわ。依存の依に一斗缶の斗でいとです」
「へえ、綺麗な名前ですね。韻踏んでるみたい」
「よく言われます」
「じゃ、イトって呼びます。あ、俺、石原結弦っていいます。好きに呼んでください」
「よろしく」
それからわたしたちは、携帯電話を取り出し、連絡先を交換した。そして図らずも、石原君の「yuduguitar」というアドレスから、彼の担当楽器の推論がついたのだった。
「ギターやってるんだ?」
「あ、メアドでわかりましたか」
「おもっきしギターって書いてあるしね」
指摘すると、石原君は恥ずかしそうに笑った。
「メアドに入れてるけど、実はまだギター始めて一年ちょっとだから、あんまりできないんだよね。簡単な曲はいくらか弾けるけど」
「へえ、でも、楽器できる人って、やっぱカッコ良いなと思うな。わたし、聴くのは大好きだけど、実際にやったことはないから」
「始めてみようとか思ったりする?」
「まあ、やってみたいとは思うけどね。いざやろうとすると踏ん切りがつかないというか。ほら、楽器って高いじゃん?」
「まあね。気持ちはわかる」
「ギターって、いくらのやつ使ってるの?」
「俺は、けちって安いのにしちゃったかな。アンプとかチューナーも込みで5万くらい」
「安いっていっても、やっぱ、結構するんだね」
「まあだから、楽器って結構高いんだよね」
それからもぽつぽつ会話をしながら、わたしたちは混み合う食堂で昼食を食べていった。石原君との会話は話しやすくて楽しかったが、否が応でも「100日」が目に入るのでその度に少し暗い気持ちにはなった。この人とはどれだけ仲良くなっても、100日後には別れなければならない。その事実を、嫌でも認識させられる。やがてお互い昼食を終えると、席を立って、周囲の様子を見ながら食器をステンレスの棚に返した。わたしたちの他にも食器は返す学生は当然いて、棚はほとんど満杯になっていた。
「じゃあ、また会いましょ。適当メールするわ」
「うん、またね」
そんな会話の後、石原君と別れる。そして次のガイダンスが行われる講堂へ歩いていると、早速彼からメールが届いた。一度立ち止まって、わたしはそれを確認する。
「ロックンロールは終わらない。終生、変わらぬ日々を。また今度会いましょう」
Number‘s Numberの「ロックンロール」という曲の歌詞を引用して、石原君はわたしをセンチメンタルへ誘った。