7 急転
「葵! やっとみつけた!」
栗色の髪のおっとりした感じの少女がこちらに駆けてくる。大きい胸が激しく揺れていて、シンは慌てて目を逸らす。葵と仲違いしているという山名瑞希だ。葵は瑞希とシンに挟まれた格好になる。
葵はあからさまに顔をしかめ、無言で立ち止まった。瑞希は構わず葵に喋りかける。
「ねぇ、葵! 修学旅行の班、まだ決まっていないでしょう!? 私の班に来なよ! 美由紀や晶もいるから!」
葵は困ったように顔を背ける。瑞希は口を動かすのをやめることなくまくし立てる。
「ね? いいでしょ! これまでのことなんて、私は気にしてないし! 全部水に流しましょう! それがいいわ!」
「いや、ちょっと落ち着けって……」
明らかに葵は嫌がっていたので、思わずシンは口を挟んだ。しかし途端に瑞希は不機嫌になり、ますます早口になっていく。
「男は関係ないから黙っててよ。私と葵が出会ったのがいつだかわかる? だいたい500年前のヨーロッパよ。あなたが入り込む余地はないの。当時、私は貴族のお屋敷の使用人だったわ。私は屋敷の子どもたちがお父さんお母さんにかわいがられて着飾って、お肉を食べているのを見ていることしかできなかった……。でも葵が来て、変わったの。葵は旅の魔法使いだったわ。葵は私を魔法でお姫様にして……」
呆然とするシンを置いてけぼりにして、瑞希は頭がクラクラする話を続ける。いや、まあ、シンにも気持ちはわからないでもない。思春期特有のはしかのようなものだ。でも、それを披露するのは時と場所を選んだ方がいい。
瑞季のあまりに遺憾な本気ぶりに、葵といえど青くなるしかない。葵は一瞬目を閉じて、「仕方ないか……」とつぶやいた。葵は身を翻し、シンの横につく。
「悪いけど瑞希、僕が入る班はもう決まっているんだ。ねぇ、シン」
葵はすばやくシンの手を握り、腕を組む。シンは慌てるが、葵は「動かないで」と小声でささやく。話を合わせろということらしい。ここで葵の意図通りに動かなければ、余計にややこしくなる。シンは多少の罪悪感を覚えながらも、葵の台本通りに動くことにした。
「そうなんだよ。今から自由行動の予定とか決めるところなんだ」
不自然に聞こえないように、あえて明るい声でシンは言った。後を受けて葵は言う。
「僕はうちの委員長の班に入るよ。委員長の班は、彼と一緒に行動するそうだからね。この意味がわかるかい?」
謎かけをしつつ、葵はいっそうシンに密着する。葵の暖かさと柔らかさが、ダイレクトに伝わってくる。どういうことだろう。全くわからないなあ(棒読み)。
「どうして! どうして男なんか選ぶの! 葵、優しい女の子が好きって、言ったじゃない! ずっと一緒にいようねって、言ってくれたじゃない! 私の指に、指輪だってはめてくれたのに! 私の指輪を、受け取ってくれたじゃない!」
瑞希は指輪をはめた左手を葵の方に見せる。指輪にはトパーズだろうか、鈍い黄の宝石が入っていた。どうも雲行きが怪しい。
葵は必死の形相で詰め寄る瑞希を見て、おかしそうに笑う。
「そんなの、遊びに決まってるじゃないか! 瑞希は本当に頭が緩いなあ。どうして僕がボランティア部に入ったと思ってるの?」
葵の言葉でシンは思い出す。瑞季もボランティア部に入りたいと押しかけてきたが、羽流乃は断った。それでもしつこく言ってきたので最後は羽流乃が木刀を持って追いかけ回し、断念させた。当時はそこまでしなくても……と思ったが、今となっては納得しかない。
葵はポケットから青の宝石があしらわれた指輪を取り出し、ちり紙をそうするかのように瑞希の前に投げ捨てた。
「将来悪い男に騙されるよ! ああ、もう僕に騙されているけどね。証拠を見せてあげようか?」
「え、おい……!」
シンが抵抗する間もなく、葵はそっと顔を近づけてくる。女の子特有の甘酸っぱい香りが鼻孔に広がり、温かい吐息がシンの頬を撫でた。次の瞬間、柔らかい感触がゆっくりと押し付けられる。葵はシンの頬にキスしたのだ。シンは真っ赤になり、何も言えなくなる。
瑞希は驚きと絶望が混じり合ったような顔をして、指輪を見せつけていた腕を力なくだらんと下げる。
「そんな……」
瑞希は葵の仕打ちに涙を流す。葵はすかさず瑞希に追い討ちをかける。
「ハハハッ! 君は本当に面白いな! 君の無様さは、見ていて退屈しないよ! ねぇ、本当に僕が同性愛者だと思ってた? そんなわけないだろう! 本物の変態は君だけだよ。気持ち悪いから近寄らないでくれるかな? 変態が伝染する」
葵は心底意地が悪そうな笑みを浮かべる。葵があまりに酷いので、さすがにシンも声を上げようとするが、その前に瑞希の心が折れた。
「……わかった。今の私じゃ、どうやっても葵の心を動かせないんだね……」
「やっと諦めてくれるんだね。気付くのが遅いよ」
葵は瑞希にわからないように、小さく安堵の息を吐く。瑞希も震えながら小声で言った。
「……めない」
「えっ?」
葵は顔を上げる。今度ははっきりと瑞希が言った。
「私は、諦めない。そうだね、この世界じゃ私たちが結ばれるのは無理。それはわかってる。だから、次の世界に賭けるわ。この指輪が教えてくれるの」
瑞希は祈るように左手にはめた黄の指輪を握り、葵によって地面に打ち捨てられた青の指輪も拾った。
「さよなら、葵。次の世界で結ばれましょう」
瑞希はシンと葵の前から姿を消す。シンはその様子をぽかんと見送るしかなかった。