1 天使たちの策謀
グノーム王国の王都アストレアはこの世界の都市としては珍しく、城壁のない開かれた都市だ。かつては城壁が存在したが、魔王アスモデウスが現世に転生したときの戦役により完全に破壊された。
結果、政府が積極的に整備事業を進めた中心街はともかくとして、郊外にはかなり雑然とした町並みが広がることとなった。周縁部では人口およそ十万人の王都を支えるための農場が営まれ、ほとんど農村と変わらない。
ミカエルの住まいとなっている教会は、そんな農村地帯の一角にあった。農村といっても一大消費地である王都での食糧需要はかなり多いので、貧しい寒村というわけではない。地主の家はレンガ造りの立派なものだし、小作人の家も木造ではあるが床は板張で暖炉を備え付けている。
またミカエルはかつて南の大国サラマンデルを治め、国が滅びた後はグノームに亡命して貴族となっているエゼキエル家の一族とも認められていた。そちらの援助も受けようと思えば受けられる。
にもかかわらずミカエルは住民からの寄付も、エゼキエル家からの援助も一切受け取らなかった。住み処としている教会も、住民に捨てられた空き家を改修した、つつましいものだ。
「……何もミカエル様がこのようなところに住まう必要はないでしょう。天使にふさわしい住居に引っ越せばよいのでは?」
こぢんまりとした礼拝室でやせぎすの神経質そうな青年──ラファエルに尋ねられたミカエルは返答する。
「貪欲は罪です。神に仕える天使は、清貧であらねばならない……」
「ミカエル様がそう仰るのなら私は何も言えませんが……。しかしこの世界でなら、そのお力を振るってもよろしいのでは?」
「神の使いとして、みだりに神から与えられた力を使うべきではありません」
ミカエルの言葉を聞いて、ラファエルの表情が険しくなる。
「……では、あの者たちを放置しておくおつもりなのですか?」
「訪れる死が、彼らを神の御許へと救済するでしょう」
窓が小さいため光量が少なく、薄暗い礼拝室でミカエルは平然と答えた。ラファエルは激昂する。
「待てません! 彼らは我々の手で直接救済されるべきだ! やはり彼らがこの地獄に墜ちてきたときに殺しておくべきだった……!」
ラファエルは気色ばむ。変質してしまった地獄の管理を行っていたのはラファエルだった。ラファエルは葵たちが地獄に墜ちたとき、即刻処断しようとしたが逆に魔王の覚醒を助けかねないとミカエルは止めた。
「落ち着きなさい、ラファエル。何もしないというわけではありません。魔王には魔王をぶつけます。知っているでしょう、ラファエル? 今、ガブリエルに魔王の力を持てそうな者を、現世で探させています」
一度地獄に墜ちれば、天使一人の力で現世に戻るのは無理だ。戻るとするなら、今は地獄にいない天使まで地獄に呼ぶ必要がある。今は魂だけの体だが、現世の肉体も海に沈めて隠してあった。魔力さえ調達できれば帰ることに一応支障はない。
ただ、ミカエルは今のところ現世に帰る気はあまりなかった。日本に帰ったらその時点で魔力を感知した土着の神々と戦争になる。葵がシンを作り出した件で、八百万──無数にいるという日本の神々は葵の周辺をマークしていた。もし現世で葵に手を出していれば、間違いなく目をつけられていただろう。
だからミカエルは現世で葵を監視するに留め、直接の手出しは一切しなかった。飛行機で瑞季の使い魔に反撃しなかったのもこれが原因である。八百万の神々との戦争は、いくらミカエルでも分が悪い。
「そのような迂遠な方法をとらずとも、私とミカエル様で戦えばやつらを救済することなどたやすいでしょう……!」
戦いというのは決して小さくないリスクを内包する行為だというのに、ラファエルは勇ましく主張する。麻衣を使って葵を暗殺しようという作戦も、ラファエルにせっつかれて実行したようなものだ。葵と麻衣、どちらが死んでも作戦成功だったが、麻衣が葵の手駒になるという結果に終わった。
中途半端に仕掛けたら、逆に痛い目を見る。ミカエルは静かに首を振る。
「彼らを甘く見てはいけません……。我々が二人がかりで戦えば、十回中七、八回は間違いなく勝てるでしょう。しかし、残りの二、三回はわからない……! リスクを冒すわけにはいかないのです」
魔王ならば、わずかな勝率を強引に引き当ててくる。かつて現世で四人の魔王と戦ったときもそうだった。あっさり倒せたのは現世に飽き飽きしていた地の魔王のみで、残りの魔王との戦いはギリギリの綱渡りばかりだった。特に火の魔王には天使四人掛かりでも敗北一歩寸前まで追い詰められた。
どうしてラファエルはここまで好戦的なのだろう。私は彼の調整を失敗したのだろうか。これだから私は、彼をこの地に左遷するしかなかった。
「色欲のアスモデウスに関してはそうでしょう。しかし、他の魔王ならどうですか?」
「……」
ミカエルは黙る。彼らも地獄に墜ちているが、まだ自分の力に目覚めていない。彼らなら、簡単に救済できるだろう。
「ミカエル様が仰るとおり、アスモデウスには手を出しません。しかし、やつだけはどうしても救済しなければならない。なぜだかわからないが、そう思えて仕方がないのです……!」
ラファエルは前髪をかき上げて酷く怒っているような表情を見せる。ミカエルにはわかった。前世の記憶が荒野に落ちる稲妻のようにどうしようもなくラファエルを駆り立てている。ミカエルは折れた。
「……戦うというのは最後の仕上げのようなものです。戦う前に、100%勝てる状態に持って行かなくてはならない。それができるというなら、許可しましょう」
ラファエルは一転嬉しそうな顔をして、ミカエルに計画を語る。
「ミカエル様、もちろんです! やつらは遠からず指輪を探すため、他国へ攻め込むこととなるでしょう! 野蛮なる魔王どもはそのような手段しか知りませんから! そこを叩いて、敗退させます! そうすればやつらは勝手に相争って自滅し……」
ミカエルはラファエルに感づかれないように小さく嘆息する。勝てないことはないはずだ。むしろ、勝率でいえば九割近い。しかし、この入れ込みようはまずい。足下をすくわれて返り討ちに遭うのではないか。だが今更やめろと言っても聞かないだろう。
(まぁ……構いません。代わりはまた探せばいい話です)
内心でミカエルは、全てをラファエルにゆだねると決定した。成功すればよし、失敗してもラファエルが死ぬだけ。ミカエルはラファエルの話を聞き流しながら、ラファエルが敗北した場合の算段を練った。




