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51 過去

 「あの子と遊んじゃいけません」。周囲の大人は、そう言って我が子を葵に近づけさせなかった。無視がいじめに変わるまで、そう長い時間は掛からなかった。


 原因は、葵の親にあった。駆け落ち同然でこの町にやってきた葵の両親は、一年も経たない内に離婚し、乳飲み子の葵は母の元に残された。


 母は世間知らずないいところのお嬢様というのがぴったりな人で、どんな仕事についても長続きしない。やがて母は借金をして贅沢するようになり、夜の仕事に落ち着いてしまう。


 葵が物心ついたときには、母の生活は完全に破綻していた。葵は母が昼間から酒を飲み、酔いつぶれている姿しか覚えていない。幼稚園にもアルコールの臭いをプンプンさせながら葵を迎えに来るものだから、保護者にも園児にも敬遠された。先生に控えめに注意されたら、「私のことを差別している」と暴れ出す始末である。どうしようもなかった。


 葵はよくここまで大きくなれたものだ。いつも汚い服を着ていても、おもちゃを買ってもらえなくても、母は最低限の世話はしてくれた。葵が暴力を振るわれることはなかったし、飢えることもなかった。




 葵が小学校に上がる頃には夜の仕事も続けられなくなり、結局母は実家を頼った。葵は小学校二年生のとき引っ越して、隣町の小学校に転校した。


 母の実家は借金の清算と仕事の斡旋はしてくれたものの、葵たち母子が実家に戻ることは許さなかった。相変わらずの貧乏暮らしで、葵はもらいもののくたびれた服に、ぼさぼさに伸びた髪で過ごした。


 当時、葵の友達は母からもらった男の子のぬいぐるみだけだった。悪い噂は転校した先でも広まっていたため、葵は無視され続けていたのである。


 葵はぬいぐるみに名前をつけ、ランドセルに釣り下げ、どこへ行くにも一緒だった。今思えば葵のために買ってくれたわけではなく、パチンコか何かの景品だったのだろう。しかし母の気まぐれが葵は嬉しかった。


 転機が訪れたのは、夏休みのことである。いつものように葵は一人、公園でぬいぐるみと遊んでいたのだが、そこにクラスメイトの男子数人が現れた。男子たちは葵をからかい、葵の手からぬいぐるみを取り上げる。そのときにぬいぐるみの腕がとれ、葵は号泣した。男子たちはすぐにぬいぐるみを葵に返したが、後の祭りだ。


 泣きながら帰る途中、葵は呼び止められる。


「どうして泣いているんだい?」


 声の主は通学の際にたまに見かけるおばあちゃんだった。葵は真っ赤な目を擦りながら答える。


「シンノスケの……シンノスケちゃんの……腕がとれちゃったの。男の子に、乱暴されて……」


「そうかい……。ちょっとこっちに来な」


 おばあちゃんは葵を家に上げて、ぬいぐるみを直してくれた。葵は機嫌を直し、礼を言う。


「ありがとう! シンちゃんも、もう痛くないって!」


「それはよかった。またいつでもおいで」


 おばあちゃんはニッコリと笑い、葵は上機嫌で家に帰った。




 それから、葵はおばあちゃんの家に通うようになった。おばあちゃんはいつも快く葵を迎え、葵の話を聞いてくれた。


 冬休みのある日、葵は泣きながらおばあちゃんの家を訪れる。葵の姿を見て、おばあちゃんは目を丸くして尋ねた。


「どうしたんだい?」


「おまえ、汚いから、バイ菌が移るからって、男子に……」


 葵は泥だらけになっていた。男子たちに、泥団子をぶつけられたのだ。


「でも、シンちゃんは守ったよ。ほら」


 葵は泥がつかないように、胸の中にぬいぐるみをしっかりと抱きしめていた。


「少し待ちなよ」


 おばあちゃんは葵をお風呂に入れ、出かける準備を始める。風呂から出た葵はおばあちゃんの家にあった古着に着替え、おばあちゃんと一緒に出かける。


「おうちには連絡したから、時間は心配しなくていいからね」


 おばあちゃんに連れて行かれた先は、美容院だった。葵は長い髪を綺麗なストレートにセットしてもらう。


「いかがですか」


 美容師はニッコリと笑って葵に訊く。ぼさぼさ頭の小汚い子どもはそこにはいない。鏡には、どこかのお嬢様みたいなかわいい女の子が映っていた。


 とても自分は思えない。綺麗な格好さえすれば、自分はここまでになれるのだ。葵は嬉しいと思った。


 しかし葵は首を振る。


「もっと、髪を短くしてください!」


 おばあちゃんは慌てて尋ねた。


「葵ちゃん、一回切っちゃうと元の長さまで伸ばすのは大変だよ? それでもいいのかい?」


 葵は元気よくうなずく。思えば、葵は人生を通じて逃げてばかりだった。立ち向かう強さがほしい。


「いいの……。私……いや、僕は強くなりたいの! 男子に負けないくらい! だから、思いっきり短くして!」


 僕は強くなる。「要らない子」なんて言わせないために。


 強くなっても、僕は弱い者いじめなんかしない。僕は虐げられている人たちを救うんだ。おばあちゃんが、僕を救ってくれたように。




 冬休み明け、葵はさっぱりした髪型に、おばあちゃんから教えられた通りアイロンを掛けたぱりっとした制服で登校した。教室に入ると、やんちゃな男子がさっそく女子から筆箱を奪い、走り回っていた。


 葵はつかつかと男子に近づいてそっと足を出し、男子を転倒させる。男子は机を二、三個倒して転げ、葵は男子の手から筆箱を回収する。


「幼稚なことはやめたまえ。はい」


 あ然とする男子に一言言ってから、葵は筆箱を女子に返す。葵の変わりように教室は騒然としたが、すぐになじんだ。学年が変わる頃には、葵は女子の中心になっていた。

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