4 海の怪物
アリエテはサラマンデル最大の港湾都市だ。対岸のシルフィードと交易船が行き交い、沖では多数の漁船が操業する。そして近年、この都市は新たな航路への出発地点ともなっていた。
「先輩、風が気持ちいいですね」
「そうだな……」
黒海冬那の柔らかい髪が、潮風になびく。帆船の甲板で、神代シンはのんびりとどこまでも広がる海を眺めていた。シンたちの乗る旗艦の周囲を大小の軍船が固めている。
船が向かっているのは、統一帝国の皇帝たるシンたちが自らの手で開拓した新天地──アズールだ。海岸線には多数のスキュラが生息していたが、シンは女王たちとともに自ら乗り込んで討ち滅ぼし、アズールを人間の勢力圏とした。
これで山道ルートだけでなく海運も使えるようになって開拓が一気に進むと期待されたが、そう簡単にはいかなかった。アズールの砂浜から巨大なクラーケンが上陸し、開拓民を襲撃するという事件が起きたのだ。
護衛に送っていた貴族や軍は奮戦したがまるで歯が立たず、海岸に作った簡易な港湾施設は破壊されて数人の住民が食われるなど大きな被害が出た。貴族や軍に対応できないなら、シンたちが自ら出陣するしかない。シンは水の魔法を得意とする冬那とともに、サラマンデル海軍の護衛を受け、アズールへ向かっていた。
「先輩、こういうのはどうですか?」
「おいおい、危ないぜ」
冬那は船の舳先に立ち、ふざけているのか手すりから手を離した。慌ててシンは後ろから手を回し、抱きつくようにして冬那を支える。冬那はスッと腕を水平に上げ、一身に風を受ける。
「そういうことか」
「先輩なら付き合ってくれると思ってました」
ようやく冬那が何がしたいのか理解したシンは、苦笑いする。タイタニックのあの有名なシーンを再現しているのだ。こっからどうするんだっけ……? よくわからなかったのでシンは冬那を強く抱きしめる。違っていた気もするが、冬那は満足そうなのでよしとしよう。
帆船は険しい岩場が続く海岸線を避け、大回りしながらアズール平野を目指す。波も風も安定していて、船酔いもしない。予定通り、アリエテを出港してから三日後にはアズールに接近した。
海岸線の方を双眼鏡で見ていたシンは驚愕のあまり声を上げる。
「なんだありゃ!?」
巨大なイカの化け物が、触手をぶらぶらさせながら浜辺を闊歩していた。報告にあったクラーケンだ。ちょっとしたビルくらいの大きさである。今は無人の砂浜を進んでいるが、その先には建設中の町がある。
「火の力に水の力! 蘇れ、不死身の肉体!」
シンの手にはこの世に渦巻く負の感情を魔力に転換し、膨大な魔力を貯め込んでいる四種類の魔王の指輪があった。シンは二種類の指輪を組み合わせることで、魔力をある程度引き出すことができる。シンは火の指輪と水の指輪から展開された魔方陣を重ね合わせ、ドラゴンを呼び出した。
「冬那、行くぞ!」
「ええ、先輩!」
シンと冬那はドラゴンの背中に乗り込み、クラーケンの元へ飛行させる。近づいてきたところでドラゴンは上空からクラーケンに炎のブレスを浴びせるが、全く効果はない。クラーケンはめんどくさそうに触手を振り回して追い払おうとするばかりで、蚊に刺されたほどにもダメージを与えられなかった。
「これは俺たちでやるしかないな……!」
「行きましょう、先輩!」
冬那の左手にはシンのものと対になる水の指輪が光っている。二人はクラーケンの前に並んで立ちはだかり、唇を重ねる。
「世界を満たすは水の力! 背負いし罪は命押し流す嫉妬! 甦れ、魔王リヴァイアサン!」
冬那の体が水となって弾け飛び、シンの肉体にその魂が移る。シンの肉体は地面から噴き上がった水柱に覆われ、変質する。指輪に封じられた魔王の力を操りうる冬那の魂と、魔王の魔力を受け止めうるシンの霊体。その二つが一つとなり、水の魔王は顕現する。
「頂点を目指すとき、嫉妬は己を高める向上心へと変わる……! さぁ、私と踊っていただきます!」
青いドレスとガラスの靴の魔王は、軽くステップを踏んでクラーケンを挑発した。世界にはびこる嫉妬の感情から魔力を引き出し、水の魔力として自分のものにしている。発せられる凄まじい魔力を感じ取り、クラーケンも動きを止めて臨戦態勢に入る。
先に仕掛けたのはクラーケンだった。クラーケンは丸太のように太い触手をリヴァイアサンに叩きつける。リヴァイアサンは触手を正面から受け止める。
「『水の剣』! 『毒の剣』!」
右手からは流水を噴き上げて剣とし、左手には毒が仕込まれた細剣を呼び出す。リヴァイアサンは次々と飛来する触手を『水の剣』でいなし、『毒の剣』で軽く突く。これだけの巨体だと毒の効き目も薄く、今のリヴァイアサンでは一撃で倒せない。ならば焦らずじっくり攻めるのみだ。
やがて魔王の毒でじわじわとクラーケンの動きは鈍くなり、切り刻まれた触手から流れた青い血が周囲に撒き散らされる。海の方に誘導できれば楽だったが、さすがに乗ってはくれなかった。しかし充分である。そろそろ頃合いだ。
「『蒼の渦』!」
リヴァイアサンは戦場に流れた血を魔力に変換できる。クラーケンが流した血を使い、その場で渦潮のように回転する大質量の水を作り出した。リヴァイアサンが腕を振ると『蒼の渦』は一直線にクラーケンの元に突っ込む。
クラーケンは残った触手を前に出して防御するが関係ない。『蒼の渦』はクラーケンの巨体を切り刻み、ひとたまりもなく絶命させた。




