1 羽流乃の決断
「……よし、ここまでやれば後は君たちでできるだろう?」
葵は額の汗をぬぐい、満足そうな笑顔を見せた。羽流乃は礼を言う。
「ありがとうございます。後は配下の者に任せることにしますわ」
狭いところを選び、ほとんど島のようになっている中州伝いに架橋していくとはいえ、水量豊富で幅十数キロはあるカリオストロ大河に橋を架けるのはかなりの難事業である。以前に橋を架けたときは、土魔法に精通した貴族を集めて数十年を掛けて工事を行ったとのことだ。
葵は以前に建てられた支柱を再利用しながら、羽流乃が用意した莫大な量の資材を使って、一日で古代ローマの水道橋を思わせる巨大な石橋をおおむね復元して見せた。後の細かいところは貴族たちを動員すれば何とかなるだろう。
「さすがに疲れたね……。今日のところは帰らせてもらうよ」
いくら葵でも、この大工事は容易ではなかった。葵はほとんど魔力を使い切っているようで、少し足下がふらついていた。いつもの葵ならもっと余力を残せると思うのだが、今日は元々調子が悪かったようだ。顔色もあまりよろしくない。シンは葵に寄り添って馬車に乗せてやる。シンが葵を護衛し、一足先に帰ることになった。
馬車に揺られながら、葵はつぶやく。
「それにしても意外だったなあ。羽流乃が僕に頼るなんて……」
「ああ、俺はてっきり南ウンディーネに攻め込むって言い出すんだと思ってた」
シンは同意する。会議の場で羽流乃が下した決断は、内政問題の優先だった。羽流乃は南ウンディーネ遠征の延期を発表し、葵に頭を下げたのだ。遠征用の物資を放出して当座を凌ぎ、橋を再建する。サラマンデル政府の窮状をつまびらかにしているようで、内外に与える印象はよろしくないが、それでも領民にとっては最善の選択であるはずだ。
「昔の彼女だったら、絶対僕に頭を下げたりしなかっただろうなぁ。変わった、ってことなのかなあ。すごく、彼女から余裕を感じるんだ」
「そうだな。成長したんだろうな」
シンと一緒に暴れるだけなら、傷つくのは最悪でも二人だけで済む。しかし今、羽流乃は女王として国を背負っている。失敗すれば、苦しむのは領民だ。女王としての責任感が、羽流乃に引くという決断に向かわせた。……羽流乃から余裕を感じるのは多分、絶対葵には言うことができない別の要因であるが。
さらにシンは付け加える。
「羽流乃だけじゃなくて、おまえもな」
葵があっさり羽流乃に協力したのも、シンにとっては意外だった。絶対に嫌がりながらグチグチと交換条件を突きつけると思っていたのだ。
「……君は僕のことをなんだと思ってるんだい。必要なことは手を貸すに決まってるだろう? 早く問題を片付けて中村先生──ミカエルを倒さないと、僕自身も危ないんだからさ」
「……そうだな」
シンは素直じゃない葵に苦笑する。ミカエルを倒すことを優先するなら、さっさと南ウンディーネに攻め込んだ方がいいだろうに。きっとミカエルはピスケス伯フィリップのところにいる。
悪い傾向ではない。それ以上、シンは突っ込まなかった。
レオールに戻ってすぐ、葵は大鏡からアストレアに帰還する。今日は葵について行こうかと思ったが、「調子が悪いから」と拒否された。
「相変わらず君は性欲魔人だなあ。僕が弱ってるのを見て、エロいことができるって思ったの?」
「バ、バカ、ちげ~よ!」
シンは赤面して否定する。今のところ、そういうことは羽流乃としかしていない。葵は全くそのことに気付いていないようで、ニヤニヤしながら言う。
「ま、そのうち相手してあげるから楽しみに待ってなよ。君の初めて……僕がもらってあげるからさ」
「バ、バカなこと言ってないで早く寝ろ!」
シンは顔を引きつらせながら葵を帰した。もの凄く罪悪感を感じる。これからシンは皆とどんな顔をして接すればいいのだろうか。羽流乃としたのだから、他の全員ともするべきか? それとも、羽流乃としたこともなかったことにして全員と何もしないべきなのか?
行為を行ったこと自体には全く後悔はないが、ちゃんと考えなければならない。頭を抱えたくなる気持ちを抑えて、まだ仕事が残っていたのでシンは執務室に向かった。
しばらく仕事をしていると、衛兵が飛び込んでくる。
「陛下! 一大事です!」
「どうした!?」
腰を浮かせてシンは尋ねる。衛兵は迷わず窓の方を指した。
「凄まじい魔力を持った鳥の化け物が、レオール上空に侵入しております!」
三階の執務室からはよく見えた。猛禽類をそのまま十数メートル級にしたような怪鳥が、上空を我が物顔で遊弋していた。怪鳥と、シンの目が合う。怪鳥はシンの方に向けてゆっくりと降下を始めた。
本能でわかる。俺の敵だ。即座にシンは窓から外に飛び出す。




