35 願い
潮風が香る海人門を抜けて、羽流乃とシンは水族館の中に入っていく。順路通りだとどんどん階段を降りていくことになる。羽流乃とシンはホールまで降りた。
まず、羽流乃とシンは案内所を出てすぐのタッチプールに行ってみる。ヒトデやナマコに触れることができるらしい。
「こ、こんなの本当に触って大丈夫ですの?」
ちょっとグロテスクなナマコを見て羽流乃は尻込みするが、シンは平気でヒトデを持ち上げて見せる。
「無害な生き物だけって書いてあるから大丈夫だろ。お、こっちにはハゼみたいなのがいる!」
シンは童心に返ったかのように隠れている魚やら何やらを夢中で捜す。その様子をほほえましく思いながら、羽流乃も一緒におそるおそるヒトデやらナマコやらに触った。いつもこの人はそうなのだ。羽流乃がためらってしまうことを普通にやってのける。シンと一緒にいれば、羽流乃はどこまでも行ける。
ガラス越しに色とりどりのサンゴや熱帯魚を眺めながら、羽流乃とシンは並んで歩いていく。上面が空いているので大型水槽の中には直接太陽が差し込んでおり、いくつも光の柱が現れていた。沖縄の海を完璧に再現しているのだ。神秘的で美しい。
「潜ったら同じ感じなんだろうなあ……」
シンは目を輝かせて水槽を眺める。羽流乃は微笑みながらシンと手をつないだ。
「同じではないでしょう? こうやって、ゆっくりお喋りしながら歩くことなんてできないんですから」
「そうだなぁ……」
シンは羽流乃の手を握り返してくれる。決して、振り解いたりしない。
「今度、もっと水温が高いときに来て、プライベートでスキューバダイビングしましょう。きっと楽しいですわよ」
「ああ、それはいいな。夏休みにでも来ようぜ」
みんなで来よう。シンはそう言うかと思ったが、それ以上喋らない。振り返れば無理矢理引っ張ってきたときにもっと抵抗されるかと思ったが、存外にシンは大人しくついてきた。シンも、羽流乃の気持ちを察しているのかもしれない。
羽流乃がもう一歩踏み込めば、二人で来ようと、そう言ってくれるのだろうか。でも、まだだ。まだ早い。
「そ、そうですわね。絶対に来ましょう」
顔を赤らめながら、羽流乃はそう言うだけで精一杯だった。自分で決めた告白の場所は、刻々と近づいてきている。
サメの標本やら水槽やらが展示された迫力あるフロアに寄った後、次はジンベイザメのいる巨大水槽を見学することになる。心臓の動悸が速くなっているのが自分でもわかった。いよいよ、羽流乃は自分の思いをシンに告げることになる。
フロアに入った瞬間、シンは感嘆の声を上げた。
「おおっ、こりゃすげえ」
視界いっぱいに、回遊する魚たちの姿が映る。奥の方から、巨大なジンベイザメが近づいてきて水槽のガラスギリギリでターンした。さらにはマンタの群れが悠然と視界を横切っていく。本当に大洋の中にいるかのような感覚だ。羽流乃もこれからのことを忘れてしばらく見入った。
巨大水槽の前では平日の朝一番だというのに大勢の人が群がって、感動の光景を写真に残そうとスマホやカメラを構えていた。せっかくなので羽流乃も写真を撮るべきだろうか。告白を先伸ばしにするように羽流乃は考え始めるが、シンはスマホもカメラも出そうとしなかった。
「写真とか、撮らないんですの?」
「今日はいいだろ。また、夏に来ればいいんだから」
「……そ、そうですわね。あ、待ってくださいまし!」
羽流乃が何も言い出せないうちに、シンは歩き出してしまった。どうしよう。結局何も言えてない。
(な、何をやっているのですか私は! そこのカフェにでも誘って……。いや、ぐずぐずしてると皆さんが来てしまいます!)
頭の中で、何人もの自分がどたばたと走り回っているイメージで大混乱だった。突然呼び止めたらおかしいし、いったいどうすればいいのだ。せっかくのチャンスが終わってしまう。羽流乃が慌てていると、シンは立ち止まった。
「綺麗だなあ」
気付けば、天井までガラスに覆われていて海の中を歩いている体となる通路に差し掛かっていた。真上をちょうどジンベイザメが通過し、「おおっ、でかい!」とシンは指を指して無邪気に喜ぶ。
不思議と、周囲に人はほとんどいなかった。世界の全てが、シンと羽流乃のものになっている。羽流乃は確信する。ああ、そうか。今なんだ。そう思うと心はスッと落ち着き、顔からは笑みさえ漏れるようになる。
いつまでも、この人に自分の隣で笑っていてほしい。だったら、羽流乃がするべきことは一つだけだ。
「シン君。お話があります」
「? 何だよ、改まって」
いつものようにシンは羽流乃に屈託のない笑顔を向ける。ここまで来たら、駆け引きも何もない。ただ、まっすぐに自分の感情をぶつけるだけだ。誤解の余地なく、力の限り振りかぶって思いっきり。
シンの目をしっかりと見据え、大きく息を吸い込む。胸が破裂寸前に高鳴っていて、顔が熱い。羽流乃は告げた。
「シン君、私はあなたのことが男性として好きです。私を、あなただけの私にしてください」




