-3 羽流乃の過去(前)
思えば、昔の自分はいつもいつも我慢をしていたような気がする。同年代のクソガキどもは本当に幼稚で、ずっとイライラしっぱなしだった。片っ端から竹刀でしばき上げてやりたい。そう思ったのは一度や二度ではない。
小学校三年生のときだった。信じられないことに、クラスの女子の間で万引きが流行ったことがある。盗んでいたのはせいぜい数百円のアクセサリーやら文房具だったが、額の問題ではない。
もちろん羽流乃は絶対に万引きなんかしなかった。むしろ、やっているという話を聞けばそんなくだらないことはやめろとしっかり言ってやった。予想通り、彼女たちの万引き行為はすぐに露見して、大問題となった。羽流乃は、それみたことかと思ったのを覚えている。
帰りの会で羽流乃のクラスだけは残され、教師に激しく叱責を受けた。最後に教師は「一度でも万引きした者は手を挙げろ」と告げる。クラスのほとんど全員が神妙な面持ちで挙手した。
無論、羽流乃は手を挙げなかった。本当に万引きなどしていないからである。先生はもう一度言った。
「怒らないから、正直に手を挙げなさい」
羽流乃以外の全員が挙手した。全く、世も末だ。まさか万引きしていなかったのがクラスで羽流乃だけだったとは。羽流乃は気付かれないように小さくため息をつく。
「紅、おまえは本当にやっていないのか?」
唐突な先生の言葉に頬をぶたれたような気分になって、羽流乃は顔を上げる。はっきりと羽流乃は言った。
「ええ、私は万引きなどしたことがないです」
「本当だな……?」
先生は羽流乃の目を覗き込む。とても嫌な気分になった。疑われているのだ。
「わかった。先生は紅を信じる」
直感的にわかった。先生は嘘をついている。本当に腹が立つ。羽流乃は万引きなんて卑劣なこと、一切していないのに。このときから羽流乃は教師という人種を猜疑の目で見るようになった。
先生は羽流乃から視線をはずし、今一度説教してから帰りの会を終わらせた。掃除当番だった羽流乃は、残って教室の清掃を済ませてから靴箱に降りる。
靴箱の前ではクラスの女子数人が固まって雑談していた。やましいことなんて何もないのに、羽流乃は靴箱の影に隠れる。
「……ほんとあの先生むかつく。別にあれくらいいいじゃん」
「それより羽流乃ちゃんだよ。一人だけいい子ぶっちゃってさ」
「そうね。絶対羽流乃ちゃんも何か盗ってるくせに」
「ほんとむかつく」
屈辱感で、体中が熱くなった。今すぐ彼女たちの前に出て行って、ボコボコにしてやりたい。木刀を持っている羽流乃には簡単なことだ。いつもの自分なら勇敢に、毅然と、そう思うはずなのに、足が棒になったかのように動かなかった。今そんなことをすれば、羽流乃は完全に悪者になってしまう。それが嫌だったのである。
女子たちは羽流乃の気も知らず連れ立って帰っていく。それを待って羽流乃は鉛のように重い体を引きずり、逃げるように帰った。その日は、生まれて初めて剣道の練習をサボった。羽流乃の、明確な敗北だった。
○
その日以来、羽流乃は自分が正しいと思ったことを他人に言うことを一切合切やめた。どうせ無駄だ。勝手にすればいい。自分だけは自分が正しいと思ったように振る舞うし、必要があれば剣を取る。ただし、それ以上は何もしない。ボーダーラインを超えれば、悪者になってしまう危険性があるから。そのリスクを、羽流乃はとれない。
楽になったが、どこか無性にイライラした。でも、これが大人になるってことなのだろう。葵などは正義が好き勝手やることにすり替わって破滅した。自制ができなければ、正しさは意味をなさなくなる。だから今の羽流乃が正しい。そう思っていた羽流乃の前に、神代シンは現れた。
転校早々に、給食のカレーをひっくり返した葵をかばって、シンは大立ち回りを演じる。葵がわざとやったと確信していた羽流乃はシンをバカだなあ、と思っていたが、同時にそのまっすぐさをうらやましく感じた。髪を短くしてみんなのプリンスを演じていた頃の葵に似ているとも思った。葵が諦め、羽流乃が失ったものを、シンは持っている。
そんな中、放課後に帰ろうとしていると、上級生の男子複数が下級生からカツアゲをしているという話が羽流乃のところに回ってきた。羽流乃の返答は冷たいものである。
「放っておきなさい。先生がなんとかするでしょう」
正直なところ、上級生でも武道の心得が一切ない者なら何人いようが羽流乃の敵ではない。木刀を使えば骨の二、三本くらい簡単に折れるし、竹刀でも馬鹿な小学生を涙目敗走させるくらいは余裕だろう。でも、羽流乃は何もしない。正しいことをしたとしても悪者になるなら割に合わない。
「その話、本当か?」
そこに首を突っ込んできたのがシンだった。羽流乃に話を持ってきた女子はかくかくしかじかとシンに説明し、シンは力強く胸を叩いた。
「よし、俺に任せろ!」




