目のつけどころ
七月、試験ももうすぐという季節。高二の夏といえば、青春だと大人たちは口を揃えて言うけれど、そんなのは一部の人間の幻想だ。
学校にいてもすることがない。くだらない勉強、文字を見るのも苦手だ。一年間通ってもそうなのだから、残りの二年もそうやって過ぎていくのだろう。
友達は少ない。明るい会話にどうしても馴染めず、流行もわからず、やりたいことも見出せない。何人かと一言二言、宿題のこととか話す程度でしかない私は、いてもいなくても変わらない存在なんだと思う。はじめこそよく話しかけられたが、いまではそんな気配も感じない。
別に、気に入られたくてここにいるわけではない。だから何も問題はないのだが、客観的に見て面白くないやつだなと自分でも思う。
誰かに合わせてまで「馴染む」だなんて言えないね。そう思いながら教室でも派手な生徒たちを見る。クラスメイトと呼ぶのも嫌だ。
「昨日のドラマ見た? 『夕日につぶやいた』! 塚原めっちゃかっこよかったじゃん」
「それ! もうホント泣いたわ。うちあんな彼氏いたら死んでいいわ」
「ホントそれ。あ、ってか今夜の『みるけん』見るっしょ?」
「見る見る。あれ、誰が出るんだっけ」
「えっと、ちょい待って」
頭悪そうな会話。よくコミュニケーションが成り立ってるわね、としか言えない。
ああはなるまいと思ってしまう。だいたい「うち」って一人称はなんだ、ダサすぎる。
「悪い顔してるよ?」
そう言ってきたのは、私の数少ない友達であるところの早瀬川マイカだ。おっとりとしたしゃべり口調とマイペースさからマイカもクラスでは浮いた存在だけど、優しい子だなんて有り触れた言葉じゃ表せないくらい優しいから、みんなに大切にされている。
無論、私だってマイカを無下にはできない。
「悪い顔ってどんな顔よ。鬼か何かに見えた?」
「笑ってたよ」
「ひどいわね。笑っただけで悪者ってわけ?」
「そうじゃなくて、人を見てニヤニヤって」
そう言うマイカはへへへ、と笑って見せる。屈託のない、人好きする笑顔だった。
あなたみたいに笑えたらいいのにね、そうすればどんなことを言っても許されるかもね、なんて口が裂けても言えなかった。
「ふうん」
「ドラマとか、興味ないの?」
「ないよ。いや、あるにはあるけど、俳優を前面に押し出すやつは嫌い。どちらかと言うと舞台とかの方が好きかな。あと映画とか」
「そうなんだ。ぜんぜん話してくれないのに」
「言ってもわからないでしょ。それに私の趣味よ」
そう言うと、マイカはまた笑った。口元を押さえて、おしとやかに。
「ユカちゃんらしいね」
マイカには私がどう見えてるんだろう、気になったけど口にしたりなんかしない。
周りから視線を感じる。ちらちらと、私を見ているのだろう。悪い目立ち方をしていると自分でも思う。
その中でも、一際視線を送ってくる人がいた。
廊下にいる、恐らくは後輩と思われる人物。私たちの方を見ているが、何か用事があるのだろうか。生憎と私とマイカは部活にも委員会にも入っていないから直接関係する後輩はいない。事実として私は後輩なんて一人も知らない。マイカもおそらくそうだろう。
すると廊下から見ていた後輩はスッと、どこかへ行ってしまう。追いかけるつもりはないが、ストーカーみたいで気持ち悪い。
「どうしたの?」
マイカは気づいてないようで、首を傾げている。
「いや……廊下から後輩がこっちを覗いてて、気になったのよ」
「ああ、ユカちゃんは人気者だからなあ」
「私が? なんで?」
純粋に、わからなかった。マイカはクスクスと笑って、また「ユカちゃんらしいね」と言った。
「教えなさいよ。勿体振らないでさ」
「えっとね」
マイカはどうやって説明しようか、と少し悩んでから言った。
「ユカちゃんのファン、結構いるんだよ」
「ファン?」
「目立つからね、ユカちゃんは」
「なにそれ。こんな善良な一般生徒を捕まえておいて何言ってるんだか」
「でもユカちゃん美人だし、背高いし、カッコイイし、できる女オーラ出してるし」
「だから、なにそれ」
段々と苛立ってきた。きっと褒めているつもりだろうし、悪気がないのはわかっているけれど、私はそういうキャラ付けみたいなのが大嫌いなんだ。人を簡単にタグ付けする、そういう単純さ。「JK」「優等生」「ゆとり世代」……そうやって縛って縛られて。頭の悪い生き方をする。
私の何を見て、そう言ってるのやら。
だけど、それをマイカにぶつけたって仕方ない。だから、私もあえてマイカをタグ付けする。
「マイカだって、すごく可愛いしさ。マイカにファンがいるならわかるけど」
「そうかな? ユカちゃんに褒められるのは嬉しいな」
私にはその素直さが眩しいよ、と心の内で呟いておく。
「でもさ、女子校だし、そういう先輩に憧れちゃうのも仕方ないよ」
「そういうものかな」
だったら、と私は思う。
先生に憧れるとか言われた方が現実味あるけど。口には出さないが、ロマンってやつがあるんじゃなかろうか。
何となく、私は時間割を確認した。
「って、次は視聴覚教室じゃん」
「あ、そういえば」
私とマイカは慌てて授業の準備をする。さっきの「できる女」というイメージも形無しだな、と自嘲する。
廊下に出て、教室を移動する。同じように教室に移動する人、あるいは教室へ帰る人とすれ違う。
そんな中、向こうから歩いてくる教師がいた。女子校であるこの学校において、唯一の男であることが許される立場の存在だ。そしてその教師も、例によって男である。
生物教諭の里仲ツカサがいた。里仲は生徒との仲は悪くないが、大して相手にもされてない。よくいる教員の一人だ。
そんなツカサは教室の中を覗くと、こちらを見た。ニッコリと笑う。珍しい。
「……ちょっと良いか?」
そう言って里仲はマイカを呼び止めた。マイカは首を傾げて困った顔をした。
「宿題のことですか?」
「ああ、そうだ」
「えっと、ユカちゃん……」
マイカが私を見る。私はため息をついて、頷いた。
「わかった。先に行ってるね。席は取っておくから」
「うん、よろしくね」
申し訳なさそうにマイカが手を合わせた。良いって、と手をヒラヒラと振って私は視聴覚室へと向かう。
ふと、後ろを振り返る。二人は並んで歩いていた。
胸が疼いた。その感覚に名前をつけることが私にはできない。なぜだろう、二人が歩いているだけなのに、気持ちがこんがらがってしまう。
モヤモヤとした感覚と共に、私は再び踵を返して、視聴覚室へと向かうことにした。
「……あなた」
少し離れた先に一人、さっき教室を覗いていた後輩がいた。
だが様子がおかしい。その後輩ではなく、廊下の……辺りの様子だ。さっきまでたくさん人がいたにも関わらず、いまは一人として見当たらない。
無音。静寂ではない。音がまるでなくなってしまった。
自分の彼女の間に急流があるのか、あるいは深い谷を挟んでいるかのように感じられた。
「何か、用なの?」
そう言ったつもりだった。けど声の波は、途中で凪いでいる。この距離ならきっと聞こえない。そのはずなのに、後輩はにやりと口元に三日月を浮かべた。笑っているのだ。
ぞくりと、背筋に悪寒が走った。
ごくりと、唾を飲んだ。
足が動かない。視聴覚室に行かないといけないのに。いや、あの子は避けないといけない。どうしても、あの子は苦手だ。
何だ、この子は。こんな生徒、この学校にいたか? そもそもこの子は本当に――――。
「見てるよ」
「え……」
息が止まる気がした。いや、事実として止まっていたんだと思う。
何が、はわからないし、聞くこともできなかった。
ただその一言と、彼女の視線だけが気になった。
「ユカちゃん!」
よく知ってる声が聞こえた。時間が動き出す。振り向けばマイカがそこにいた。笑いながら、困った顔をして。
「もう、先に行ってたんじゃないの?」
「あ、ええと……」
自分の額に手を当てる。嫌な汗で濡れた。最悪だ。気持ち悪くて仕方ない。
マイカは首を傾げて、私の顔を覗き込んだ。何でもない、と言って私はマイカと視線を合わせないようにする。
「そっか。……遅刻だよ、まったく。ぼーっとしてちゃだめだぞ」
わざとらしく、マイカはそう言った。はは、と笑って、ごめんねと謝る。
「もう。私と一緒にツカサに呼び出されたってことにしておくからね」
「悪いね、ありがと」
「今度、カフェで奢ってね」
「缶コーヒーでいい?」
「色気ないなあ。それにコーヒー頼むなんて言ってないよ」
「何でコーヒーショップなのにコーヒー買わないのさ」
「カフェに行くことに意味があるんです」
そういうものか、と私は納得するしかない。あの気持ち悪い後輩のせいで、気が抜けてしまっていた。
マイカが私の肩を押した。腑抜けた私は、マイカの後を追って視聴覚室に向かうしかなかった。
* * *
翌朝になって、学校へ向かうも、気持ち悪い感覚がとれなかった。それはまるで視線のように私に突き刺さり、奥の奥まで見透かしているかのようだった。
問答無用に付き纏うそれは、学校に着いてから増す。学校に帰るときは何も感じなかったのに、学校に着いたら急にだ。
校門を潜ってからの倦怠感に、もう帰ってしまおうかとも思ってしまう。
「先輩」
びくりと、大袈裟に反応する。無意識のうちに、下駄箱まで来ていたみたいだ。
話し掛けてきたのは後輩だ。……昨日の子ではない。そのことに少し、安心する。
「なに?」
「ちょっと良いですか?」
くいくいっと、手が振られる。特に断る理由はないから、その誘いに乗ることにした。
連れていかれたのはホームルームのない、実験棟だった。朝からここに用のある者はいないだろうし、確か今日は先生たちは朝礼だった気がする。なるほど、目の前の後輩はそういったことにも詳しそうだ。
言ってしまえば、人の間を上手く渡っていきそうな雰囲気がある。何か特別成功するわけでもないが、勝ち組と言われる部類にはなる、みたいな。
「何か意外でした、先輩が来てくれるなんて。先輩、一匹狼みたいな雰囲気あるじゃないですか。私は一人でも平気ですけど、みたいな? でもでもー、後輩には優しいのかな。先輩素敵!」
聞いてもないのに、ベラベラと理由を連ねていく。私の苦手な人間だ。他人を巻き込むくせに一人で盛り上がって楽しむやつだ。
昨日、マイカに「カッコイイ、できる女」というイメージがあると言われたのを思い出した。
苛立った私は、つい語気が強くなる。
「で、なに?」
「……まあ、そうなりますよね」
後輩はため息をついて、やれやれといったように肩を竦めた。こっちがやりたいくらいなのだが。
「うちの名前は宮森セツコって言います。先輩は笠井ユカさん……ですよね?」
「そうだけど」
「ああ、よかった。間違ってたらどうしようかと思ってました」
ハハハ、と笑うセツコ。わざとらしいと言うか白々しい。目が笑ってないのがもろわかりだ。
今も、私の全身を、様子を伺うように視線を巡らせている。
「実はですね、先輩に折り入って話がありまして」
「話?」
「そうなんですよ。実は私……見ちゃったんですよ」
見る、と言う言葉に私は悪寒を覚えた。昨日の後輩の笑顔が思い出される。
だが、この子とは関係がない……はずである。接点がなさそうだ。
「何を? まさか、私に幽霊が憑いてるなんて言わないよね」
「え、先輩もしかして幽霊恐いんですか?」
「怒るよ」
私はセツコを睨みつける。セツコは、あはは、と間の悪そうな笑みを浮かべた。
「これ聞いたらもっと怒るかもな、なんて。……落ち着いて聞いてくださいね」
始めからそうすれば良いのに、と思いながら待つ。
セツコは少しだけ溜めて、吐き出すように言った。
「先輩のクラスに、早瀬川マイカって人、いますよね? うち、あの人が生物の先生と一緒に車乗るとこ見ちゃったんですよね。しかも夜の十一時! これは何かありますよね!」
「…………」
言葉も出なかった。その光景がどうしてか、はっきりと思い浮かぶ。一人で待つマイカ。側につけられた車。下りてくる里仲にマイカが近づく。二人は並んで車に向かって……。
「それが、なに?」
「え?」
ようやく搾り出した言葉は、強い拒絶の色を持っていた。
「別に、マイカが誰といようがマイカの勝手じゃない。それを……関係ないあなたが私に言うのは何で?」
「えっと」
ばつが悪そうな顔。セツコは言い繕うように言った。
「ほら、同じ学校の生徒と先生が付き合ってるなんて大問題じゃないですか。先輩何か知らないですか? 二人は付き合ってるのかとか。もしかして委員会か何かだったり。あ、でも女の子は信用できないですからね。友達にも平然と嘘ついちゃいますし。もしかしたらあの早瀬川先輩も」
「あのさ」
私はセツコの言葉を遮った。セツコは黙る。
卑怯者め。そう心の内で罵りながらも、私は言った。
「だから、何なのさ。好奇心だけなら、他人の関係に深入りなんかしないでよ。あの子は怒ったりしないだろうから、言うけどさ」
私はまるで、自分の苛立ちをぶつけるかのように言った。
「……ふうん」
セツコは、先ほどまで下手に出ていた姿勢もどこへ行ったのやら、目を細めて私を見た。
ちっとも恐くはないが、生理的な気持ち悪さを感じる。
「先輩。先輩は知らないかもしれないですけど、私って結構、人気者なんですよ?」
「そうでしょうね」
「どうなっても知りませんから」
セツコはそう言って、私の横を抜けていく。足早に去っていく後ろ姿を見て、ため息をついた。
困ったやつに絡まれたものだ。そう思いながら、私もまたホームルームに向かおうとする。
「――――っ」
そこに、いた。
あの子が、いた。
今度は近い、なんてもんじゃない。一歩踏み出せばぶつかってしまうような、そんな距離にいる。
息が詰まった。また呼吸ができなくなる。この子に比べれば、セツコなんてちっとも恐くなんかない。
じっとこちらを見ている。昨日よりもずっと近くにいるから、髪に隠れていた目がはっきりと見えた。
大きく、不気味なまでに見開かれた目。真ん丸の、白目と黒目が分かれているのがくっきりとわかる、そんな目。
それが私を見上げるように見てる。ジロジロと観察しているわけでもない。ただ、私と視線を合わせている。
私の、姿を見ているわけじゃない。ずっとずっと奥を見られているような、そんな気がする。
「見てるよ」
その言葉が、私に突き刺さる。視線だ。この子の視線が、私を不快にさせる。私の深く澱んだものを、掘り出そうとしている。
「う、あ……」
自分の呻き声と共に、現実に引き戻された。身体が軽くなり、前につんのめりそうになって、踏ん張る。
最悪だ。最悪の気分。前後不覚で、酔っているみたいにフラフラで。
吐き気がしてくる。腹の中が、ぐるぐると回っている。何かが迫り上がってくる。
壁に寄り掛かれば、少し落ち着いた。深呼吸を繰り返す。肺に空気が満たされて、身体の熱が落ち着いていくのがわかった。
「おい、笠原か?」
声がかかった。噂をすればなんとやら、かは知らないが、件の里仲である。
私はいま、とても里仲と話すような気分じゃない。無視を決め込むことにして、教室へと身体を引きずって向かうことにした。
背中に声をかけられるも、私は聞こえない振りをした。
* * *
一日があっという間だった。上の空のまま過ぎていく時間。今はもう放課後で、担任の先生を待っている退屈な時間。試験前なのだからしっかりしなくてはという気持ちもあったが、どうにも締まらない。
あの子には何が「見えてる」のか。マイカと里仲の関係は。セツコはどうして私にそれを伝えた。
考えることが多すぎて、正直、キャパシティオーバーだ。
「ユカちゃん、大丈夫?」
マイカが心配してくれている。それは嬉しいのだが、今はマイカに話し掛けられるのが気まずくて仕方ない。
別に、里仲と付き合っていようが私には関係ないことだ。もっと言えば、私とマイカの間には関係のないことだ。誰と付き合おうが、マイカが変わってしまわない限り。
でも、そしたらこの気持ち悪さは何だろう。
「うん、大丈夫」
「もしかして、あの日? 薬、あげようか?」
「違うよ。あと、女子校だからってあまりはっきり言わないの」
「あ、うん……でも顔色良くないよ?」
本気で心配しているのだろう。私はいたたまれなくなって、立ち上がった。
「どこ行くの?」
「トイレ」
「……お花摘み?」
「女子校だからってそこまでしなくてもいいよ」
笑いながら、私は教室を出た。
まっすぐトイレへと向かう。数年前、生徒の要望で新しくしたらしいトイレは綺麗だ。この教室棟だけ綺麗で、他の校舎は汚く、わざわざ教室棟まで来る生徒もいるくらいだ。
トイレの洗面台の前に立って、私は顔を水で洗う。化粧はしていないから、平然と顔を濡らしていける。後で日焼け止めは塗り直しておこうと思って顔を上げた。
そこにあるのは鏡だ。当然と言えば当然だろう。洗面台には鏡がセットで置かれているものだ。
鏡の中の自分と目が合う。鏡を見るなら当然のことだが、私は少しの違和感を覚えた。
まるで、鏡の中の私が、意思を持って私を見ているんじゃないかって。
私は鏡を見ている。でも鏡の中の私は、私を見ている。
私は、私に見られている。
そう思ったとき、鏡の中の私が笑った。
「ひっ」
私は笑っていない。気色悪がって、引き攣った顔をしていた。鏡の中の私が、私の意思から離れていく。
何かの見間違いだ。瞬きをして、鏡を見た。
そこには青ざめた自分の顔。表情の一切が消えてしまっている。そのことに安堵を覚えるどころか、余計に気持ち悪さを感じてしまった。
「見てるよ」
そう、鏡の中の私に言われた気がした。私はいてもたってもいられなくなって、トイレから出た。
* * *
そうして、日が過ぎていって試験最終日。私は鏡を見ることができなくなった。学校だけじゃない。家でもだ。
視線をいつも感じる。ダレカに見られている。付き纏って来るそれらを、私はいつもみたいに鼻で笑えない。
一体誰が私を見ているのか。あの子? セツコ? もしかしてマイカ? はたまた里仲?
教室の端で、怯える日々。話し掛けられたら平然とした態度を何とか繕うけど、マイカにはバレてしまっているだろう。それでも理由は聞かず、体調を気遣うのみに留めているのはマイカの優しいところだ。
いや、もしかしてマイカが見ているの? 違う。全部悪いのはあの子だ。私を見てくるのはあの子だ。
……あの子って誰? 私を見ていたのは――――。
試験が終わる。何とか、終わらせた。試験勉強に身が入らない中、試験中も全然集中できなかったけど、何とかやりきった。赤点は何とか免れればいいけど、順位は前よりガタッと落ちただろう。
でも、夏休みだ。学校に来なくても良い日。お盆より前に、私の家は祖父母の家へ行くことになっている。今年の夏はゆっくりしよう。きっと疲れてるんだ。
「ねえ、聞いた? あのウワサさあ」
浮ついた、クラスの人間の会話。またくだらない噂話かと思いながら、マイカと里仲が寄り添う姿が頭をチラつく。
私には関係のないことだ。他人の関係に踏み込むなんて、しちゃいけない。
でも、ウワサを聞くくらいなら。イインジャナイカナ。私は何もしていない。向こうが勝手に話しているだけだし。
「生物の里仲ってさぁ……と付き合ってるんだって」
肝心なところが聞こえない。だが、聞くわけにもいかないから、席でおとなしくしていた。
「えっ、ウソ、マジ?」
「マジマジ。ホテル入ってくの見たってやついるの」
「うげ、趣味悪っ! あいつぜってーオタクだよ」
「そうかな。フツーっぽいじゃん」
「ああいうやつの方が変な性癖隠し持ってるんだって。脚舐めろとか、まだ生易しい方。オタクっての、ひどいんだから」
「何それ。あ、元カレそういうのなの?」
「バカ!」
ホントに馬鹿みたいな内容で、私はため息をついた。まだその程度の噂なら、気にすることもないか。
「ユカちゃん」
「ん?」
マイカが、私の前に立っていた。私は顔を上げずに応える。今の顔を、見られたくなんかない。
マイカはと言えば、少し気まずそうに、話しかけるのを躊躇っているようだった。
「なに?」
「えっと、疲れてるところ悪いんだけど……このあと時間あるかな?」
「このあと? 特に予定はないけど」
このときに、ああ、断っておけばよかったって思った。私は素直さを呪う。
「じゃあ、その……部室棟! 三階に登る外階段の踊り場で話そう」
「う、うん」
珍しいマイカの様子に驚きながら、私は頷くことしかできない。
担任の先生が入ってくる。マイカは、またねと言って自分の席に戻った。
* * *
階段の踊り場。普段は滅多に使われることのない外階段。七月の陽光も、屋根のおかげで遮られている。思ったより良いスペースなんじゃないか、なんて脳天気に考えた。
マイカは、私より先にそこにいた。階段に座って、私を見下ろしている。
「単刀直入に聞くけど」
マイカは私が登るのを待たずに言った。
「ユカちゃん、私、ツカサと……里仲ツカサと付き合ってるの」
「……ふうん」
それは、半ば予想していた告白。二人が付き合っていることが、真実だろうというのは予想済みだ。さすがに少しはショックだったけど、街中でばったり会うよりかは気楽だろう。
しかし、マイカはそうではないらしい。勢いよく立ち上がった。私は普段通りに相槌を打ったつもりなのだけれど、気に入らなかったようだ。
「なに、ふうんって!」
「ちょっと、マイカ……」
「私、付き合ってるの! ツカサと! 誕生日プレゼントだってもらって、夏休み中も、ちょっと遠くの花火大会行こうって約束して!」
「何を、言ってるの?」
「わからないの!?」
マイカは冷静じゃない。こんなマイカは初めて見た。
「ユカちゃん、ツカサと寝たんでしょ!」
「……は?」
何を言っているの?
「ちょっと待ってよマイカ。誤解だよ」
「嘘! 嘘つき! 色んな子が見たって言ってる!」
「色んな子って誰よ!」
「みんなだよ! クラスのみんなも、違うクラスの子も!」
マイカは取り乱している。私も混乱しているが、思い出したのはセツコだった。
あの後輩が、変な噂を流している。「人気者」と自称した彼女は、自分の地位を使って変な噂を学校に流しているのだ。
私は苛立った。マイカに、セツコに、里仲に。私の何が悪いの。私は何も、悪いことしてないのに。
「マイカは、私よりも、他の子を信じるの?」
「当然でしょ! いっつもいっつも……嘘ばっかり!」
嘘、嘘、当然、当然。
何が本当で、何が嘘なのか。マイカにはわからなくなっている。
カワイソウナマイカ。私しか本当のことを認識してないんじゃないか。
「里仲にも聞けばいいじゃない。そんなの、嘘よ」
「私、知ってるもん。ツカサは本当は、ユカちゃんみたいな子が好みなんだって。好きな女優さんとか、みんな美人だもん。私じゃない。私みたいな子じゃない」
マイカはそう言って泣いた。なんだこれ。私が悪者みたいだ。話しを聞かないのは向こうなのに。
「もういいよ、マイカ。マイカが何も信じられないなら、話すことなんてないよ」
「逃げるの! 卑怯者!」
安い挑発、って笑って、私は階段を降りた。
私は一人になった。一匹狼、なんて孤高なものじゃない。誰にも信じてもらえない、正真正銘の一人ぼっちだ。
もう帰ろう。私はそう決めて、下駄箱に向かうことにした。
教室棟に戻る。すると、
「え――――」
目、目、目。
私をたくさんの目が見ている。
視線じゃない。目が私を向いている。
ゆらゆら揺れる人影。やけにくっきりと浮かんでいる目が私を見ている。
この人たちは、学校の人たちだ。でも、何も言わない。ただただ、私を見ている。
「ひ、えっ」
私は喉に音を突っ掛からせた。恐い。恐い、恐い!
何を見ているの。何を知ってるの。本当のことなんて何一つ、知らないくせに!
私は次には駆け出していた。人影は私を避けていく。でもじっと、私から目線を外さない。
廊下に飾られている、自画像。美術の授業の作品だろうか。似たような笑顔を浮かべるそれらの目すら、私を見ている。
下駄箱に走る。でも一向に着く気配がない。何度も同じ曲がり角を曲がっている。
どういうことなの。下駄箱に行くことができない。帰ることができない。
仕方ないから、自分の教室へと向かった。階段を登って三階へ。教室へ入ると、クラスの人達が一斉に私を見た。
「な、何よ。何なの」
走ってきたのが悪いのか、噂のせいなのか。心地悪い感覚かり逃れるべく、私は再び走りはじめた。
また、上へ。さらに上へ。五階は誰も使わない階。その奥に、ボロボロで冷房も壊れているから、誰も使おうとしない教室がある。
駆け込んで、へたり込む。私は息を切らして、全身に力が入らない。
嘘つき。マイカの言葉が響いた。
――私は、嘘つき。
マイカにはわかっていたのだろうか。斜めに構えていた見方や口調も、クラスに馴染もうとしなかったことも、全部が全部、嘘なんだって。
昔から、恐かった。自分の言葉が誰かを傷つける。するとみんなが私を批難する。口で尤もらしいことを言いながら、私の価値観を否定する。ナイフの代わりに目で私を刺す。
私は私を守るために、私にタグを付けたんだ。クールで、一匹狼で、一人でも平気って顔をして。幸い、私の容姿はそれを認めさせるだけのものがあった。
なのに、このザマだ。友人には信じてもらえなくなった。他に守ってくれる人もいなかった。
私だって、友達を作って、渋谷行って、彼氏とデートして。馬鹿みたいに笑ってたいのに。
それを誰よりも拒んで、貶していた。
他ならぬ、女子高生で、友達とワイワイやって、教師だけど彼氏を作って幸せな、マイカを。
私、馬鹿ね。そう呟いて、顔を上げる。
「――――っ」
あの子だ。真ん丸の目をした、あの子が私を見ている。
不思議と落ち着いていた。私はその子に声をかける。
「あんた、何なのさ。私を付け回して、面白い?」
その子は何も言わない。ただ、私をじっと見ている。
沈黙が流れた。不快な時間じゃなかった。私以外のすべてが敵に思える今では、この子が一番近くにいてくれる存在だった。
その子は、私に手を差し伸ばす。
「見てるよ」
私は、その言葉に救われた気がして。
伸ばされたその手に、縋るように自分の手を重ねた。
ああ、身体が自由だ。どこへでも行けるような、そんな感覚さえ――――。
強い光と、風を感じて、私の意識は途絶えた。
* * *
私の学校には、怪談がある。
先生と恋に落ちた生徒は、不幸な結末を迎える。目をつけられて、いつかはいなくなる。
そこにはロマンなんてカケラもなくて、ただ人が積み上げた現実があるだけ。
そして現実は、たくさんの人の目で出来上がる。真実を塗り潰すほどの、大きな現実が。
真実を知る人はいない。ただ、真実を知ることができたなら、言ってやりたいことがあるはずだ。
「人を見る目が、ないね」