第2章 公女 4
瞬く間に二週間が過ぎた。連日連夜にわたる特訓で体は疲れ切っていたが、一度も泣き言を言わず惠姫は耐え続けた。辛くないと言えばうそになるが、覚悟の上のことであったし、一族を失い、捕われの身となり自害しかけたこともあり・・・辛いことは今までにいくらでもあった。劉備や孔明のためであれば、これくらいは耐えることができた。
ある日突如孔明が館に戻って来て、馬謖と手合わせ中の惠姫の動きを、しばし目で追っていた。
「馬謖」
孔明が側に呼んで、惠姫の上達具合を尋ねた。
「姫はかなりの腕になられました。私とほぼ互角といったところです。・・・孔明様。もう十分だと思います。これ以上は姫の御体が心配です」
しかし次に孔明の言った言葉に、馬謖は仰天した。
「馬謖、私が代わろう。真剣を持って参れ」
「孔明様、それはあんまりにも・・・!」
「持って参れ!」
あわてて馬謖が真剣を用意した。今までは木刀で特訓をしていたのだ。孔明は惠姫にも真剣を持たせた。惠姫は黙ってそれに従った。
「姫、私に本気でかかってきて下さい」
何と孔明は片手に白羽扇を持ったままで、もう片手に真剣を構えている。
「いきますよ、姫」
言うなりものすごい速さで空を斬り、孔明の真剣は惠姫に向かって来た。とても片手の力とは思えない。孔明は先ほどほんのしばらく惠姫の動きを見ただけで、その動きを完全に予測していた。惠姫は特訓の甲斐あって切り込まれはしないものの、受けたりよけるのが精一杯で、とても攻撃に出られない。馬謖が息を詰めて見守っている。
孔明の真剣は惠姫を執拗に追い回し、次第に惠姫の疲労の色が濃くなってきた。
わずかに気を抜いた瞬間、惠姫の右腋に痛みが走った。孔明の真剣がかすめて服の一部が裂け、肌から血がにじんだ。
「姫。あと一寸ずれていたら、命はありませんよ」
肩で息をしながら、惠姫は孔明の瞳を見た。冷ややかなその瞳は、今までの惠姫の知っている孔明とは思えなかった。
「・・・!」
さらに次の瞬間、惠姫の左ほほに痛みがかすめた。かすかな血の匂いがした。
「顔には来ないと、油断しましたね」
あくまでも冷たい、突き放すような言い方だった。
『道具になるということは・・・こういうことなのだ・・・』
そのことの本当の厳しさを、惠姫は今、改めて思い知らされた。
『このままでは本当に傷つけられる・・・』
自らの血の匂いは、今まで意識的に忘れようとしていた、両親の殺された時を・・・惠姫が初めて知った、激しい怒りと憎しみの気持ちを呼び起こした。
惠姫は孔明を睨み返した。馬謖に打ち付けられても変わらなかった惠姫の穏やかな瞳は、もうなかった。
次の瞬間は、惠姫のものだった。
真剣の柄と柄の激しくぶつかる音がして、そこで二人の動きは止まった。惠姫の真剣が孔明の肩先で、止まっていた。白羽扇が宙を舞い、孔明は惠姫の真剣を止めるため、思わず両手を使っていた。
「お見事です、姫。よくここまでになられました」
孔明は、もとの優しい孔明に戻っていた。
「殿が尚姫様と江東を発たれ、荊州に向かわれたと知らせがありました。女官たちを迎えの準備に、かからせて下さい」
「かしこまりました・・・」
返事をするやいなや、惠姫は気を失って崩れ落ちた。
「馬謖、急ぎ呉普殿を呼べ!」
絶句して二人の勝負を見ていた馬謖は、我に返って走り去った。
孔明は惠姫に向かい、心の中で詫びた。
『姫、すまない。でもあなたしかいないのです・・・』
孔明は惠姫を抱き上げると、館に入っていった。