第2章 公女 3
それから間もなく、妻を亡くした劉備に孫権の妹、尚姫との結婚が決まった。劉備は趙雲を伴って孫権の領地、江東へ旅立ち、惠姫は孔明らと共にその留守を預かっていた。
劉備が旅立つとすぐに、孔明が城奥の惠姫を訪ねた。
「惠姫様。折り入ってお願いしたき儀があり、まいりました」
孔明は拱手し、慇懃に拝礼した。
惠姫は公女となったことに不満などあろうはずはなかったが、本当の兄妹のように仲良くしていた孔明が、臣下としてよそよそしく接するようになったのを、寂しいとも思っていた。
「・・・何でしょうか、孔明様」
「姫が以前おっしゃられた・・・玄徳様のために力を貸して下さると言われたお気持ちは、公女になられた今も変わりませんか」
「もちろんです。私が公女にして頂いたのは、よりおそばでお力になるためです。私のできることでしたら、どんなことでも致します」
「確かですね。私が殿の留守を預かる最高責任者として・・・軍師として命じても、従って頂けますか」
「はい」
孔明は何を言おうとしているのか・・・惠姫がうなずいたとたん、いつもはやさしく接してくれる孔明の顔が、厳然とした軍師の顔になった。初めて見る孔明の厳しい表情に、惠姫はわずかにおそれの気持ちを感じた。
「ではまず姫は病ということにして、しばらくすべての仕事を辞して城下の私の館に来て下さい。姫がいなくても数週間各所の仕事が滞らぬよう、書面で指示を出して下さい。今すぐにです、できますね」
「はい・・・でもそれで私は、孔明様の館で何をするのでしょう・・・」
「薙刀です」
間発を入れずに孔明が答えた。
「あの・・・薙刀でしたら従兄の関平様と練習しております」
「尚姫様のお相手をするためですね」
「はい。尚姫様は薙刀の名手とお聞きしました。お相手がつとまるようになれたらと・・」
尚姫は気性が激しいと聞く。張り合いのある相手がいないと、女官たちが傷つけられることになるかもしれない・・・それに惠姫としてはいわば政略結婚で、たった一人で敵の陣営に来る尚姫の身の上は、他人事とは思えなかった。薙刀の相手をすることが、あるいは尚姫が打ち解けてくれるきっかけになるかもしれない・・・惠姫はそう考えていた。
しかし孔明は冷たく言い放った。
「姫のお考えは甘過ぎます。薙刀を始めようとお考えになったことは褒めてもよろしいですが、尚姫様の薙刀の腕は兄君達をしのぐと言われるほど・・・並の使い手とは違います」
「存じております。ですから女子ではなく、関平様と・・・」
「関平ではだめです。これからは馬謖を相手になさいますように」
「関平様と馬謖様は、私には同じくらいの使い手と思えますが・・・」
孔明は短く嘆息した。
「姫はわかっていらっしゃらない。関平は決して姫に本気で打ちかかる事はできません。とにかく今後は馬謖とやって下さい。馬謖には姫に本気で打ちかかるように言ってあります。姫が江東との和平のため、尚姫様を荊州に留めるための一役を買って下さるのであれば、本当に強くなって頂かなくては、とても弓腰姫とも言われる武芸に長けた尚姫様に、対等に思って頂くことなどできません」
孔明の有無を言わさぬ口調に、惠姫は思わず目を伏せた。
『私に・・・それができるのだろうか・・・』
「あなたには、できます」
惠姫の心の中での独白が、まるで聞こえたかのように孔明は言った。
「私は、あなたにはそれができると、信じています」
惠姫は孔明のその言葉で、自分の役割をはっきりと認識し、それを我がものとして受け入れた。
「はい、孔明様。必ず・・・」
このようにして、惠姫は密かに孔明の館で、馬謖の薙刀の特訓を受けることとなった。馬謖は劉備の側近の幕僚、馬良の弟で、孔明もその才を認めている前途有望な若者だった。馬謖も初めは師である孔明の命とはいえ、公女である惠姫に本気で打ちかかることにはためらいがあった。しかし手加減しようものなら孔明に叱責される。名家の姫として惠姫にも薙刀のたしなみはあったが、何しろ男のなかでも腕利きであるほうの馬謖が本気で相手をしているのだ。受け損なって打ち付けられることも多々ある。惠姫が立ち上がれなくなるくらい傷ついても馬謖の、いや孔明の特訓は容赦なかった。
面白くないのは馬謖に惠姫の相手役を取られた関羽の息子、関平だった。
荊州城に参内していた孔明を訪ね、関平は食ってかかった。なぜ自分ではだめで、馬謖ならいいのかと。孔明は、そなたは惚れている相手に本気で薙刀を打ち付けることなどできない、と答えた。図星をさされた関平は、若者らしく日焼けした紅顔を、ますます赤らめた。
「でも孔明様は・・・孔明様のやり方はあんまりです!」
「・・・・」
「孔明様の館の使用人が噂していました。馬謖の姫の特訓は、並でない厳しさだと・・・。伯父上玄徳様の御養女になられたとはいえ、一族を殺されて身寄りを無くした、まだあんな年若い姫に・・・尚姫様のお相手をするためなどと、かわいそうだとは思わないのですか。孔明様は・・・孔明様は姫を、江東との和平のための道具扱いされている・・・!」
「関平・・・」
孔明は血気はやる若者を、静かに見下ろした。
「道具というなら・・・私とて殿の理想の国作りのための道具に過ぎぬ。玄徳様に仕える者は、皆そのことを自ら選んで受け入れたのだ。それはそなたの父も同じだ。年若い姫というが、その姫の方がそなたよりはるかにそのことをよく分かっている。・・・姫を好きであるのなら、姫がどんな思いでそれを受け入れているかを考えてみるがよい。今のままでは、そなたは姫の心根にもとうてい及ばぬ。江東との和平は我が陣営の、殿の大事であり、奥向きのことは男には手の出しようがない。姫に身を張ってもらうしかないのです。とにかく私は、殿の留守中の全権を委託されているのです。この件に口出しは無用です」
関平はそれ以上何も言えず、黙るほかはなかった。