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第2章 公女 2

 孔明こうめい壱与いよ劉備りゅうびの私房に通された。

「壱与姫、今日はそなたに一度改めて礼を言いたかったのだ。姫のおかげでこの城も、荊州もみちがえるようになった。本当にありがとう、そなたはすばらしい姫だ。さすがは孔明が見込んだだけのことはある」

 劉備は初めて会った時と変わらぬ、優しく包み込むようなまなざしで、壱与を見つめて言葉を掛けた。

「・・・もったいないお言葉。身に余る光栄でございます。すべては身寄りのない私を受け入れてくださった玄徳げんとく様、孔明様はじめ皆様のおかげでございます。内侍令(ないしれい:女官頭)にまでしていただいて、感謝の言葉もございません」

 劉備のねぎらいの言葉に、壱与は丁寧に拝礼した。

「いや本当ならば・・・姫が男児だったならその才をもって、一軍の将にでもなって欲しいくらいだ。そう思わぬか、孔明」

「まことに、姫は聡明で・・・幼いころよりの父親からの教えを、十二分に受け継いでいるようでございます」

 孔明は劉備にうなずいた。劉備は一段と温かな笑顔を壱与に向けた。

「・・・ところで、壱与姫」

「はい」

「姫は今、幸せか」

「はい。幸せ過ぎて、これ以上何か望んだら、きっと天から罰が当たります」

「そうか。それを聞いて私も嬉しい。・・・姫には今までの分、より幸せになってもらわねば。あとは姫にふさわしい立派な婿を探して・・・」

 劉備が言いかけた瞬間、壱与が口を開いた。

「いいえ。私はどなたの妻になることもできません」

 壱与の言いように、劉備は驚いて尋ねた。

「姫、それはまた、なぜなのだ」

 壱与の鳶色とびいろの瞳が、劉備をまっすぐに見上げた。

「私は巫女みこでございます。女として生きてしまえば、私の力は失われてしまいます」

「姫・・・姫は今のままでも十分我々の役に立ってくれている。慈児所の子供たちと過ごしている時の姫を見かけたことがあるが、とても幸せそうであった。母を亡くしたまだ幼いわが子、阿斗あとも姫の世話になってから元気を取り戻した。まだ歳若いのに、姫には人の心を癒す、天性の母性とでも言えるような気質がある。妻となり、子を成して、女子としての幸せを望むのであれば、そうしてやりたいと思っているのだ」

「玄徳様・・・もったいないお言葉でございます。でも私が一族を失い絶望していたときに、孔明様に助けられ、巫女として生きようと決心しました。姉から私に託された力が、皆様の理想の国を作るためわずかでもお役に立つのであれば、使ってみようと思っています。ですから私を、巫女のままにしておいていただきたいのです」

「壱与姫、気持ちはありがたいが、それで本当によいのか。孔明が何と言ったか知らぬが、私は姫に我々の役に立つために来てもらったわけではない。孔明からこういう身の上の姫がいると聞いて、ただ幸せになってくれればいいと思ったのだ」

 劉備の心からの優しさは、ますます壱与の決意を促した。

「本当にありがとうございます。でも私は孔明様の言葉に従って、もう一度生きようと決めたのです。孔明様が、私の巫女星の輝きが増してきていると言われました。いつか巫女としてお役に立てることもあると思います。ですからどうか、私をこのままにおいて下さい・・・お願いでございます」

 劉備は、壱与の決心の堅さを見て取った。

「そうか・・・よくわかった姫。それでは・・・」

 劉備は一度言葉を切って、続けた。

「壱与姫、どうか私の娘に、なってはくれないだろうか」

 壱与は突然の思いもかけない申し出に、心底驚いて目を見張った。

「私が玄徳様の娘になど・・・あまりにもったいのうございます」

「いいや、姫。孔明には前から相談していたことだ。私には娘がいない。養女でもいいから一人くらいは娘が欲しいと思っていたのだ。そなたは申し分のないすばらしい姫だ。どうか私の望みを、かなえてはくれまいか」

 壱与は狼狽して決心がつかず、困って孔明を見た。孔明は劉備に相談を受けた時から、身寄りもなく人の妻にもならぬ壱与が、ここでその才を発揮してゆくためには、劉備の娘という最高の後ろ盾を得るのが、最もよいと思っていた。

 孔明が目でうなずいてみせたので、壱与は心を決めた。

「わかりました。有り難く・・・お受けいたします」

 その言葉を聞いた劉備は喜びのあまり主座から立ち上がり、壱与のそばに来てその手をとった。

「壱与姫、ありがとう。夢のようだ。そなたのようにすぐれた女子が私の娘だなどと・・。これで娘を持ちたいという私の望みがかなったのだ。ああ、私は何と果報な父親だろう」


こうして壱与は、劉備玄徳の養女となった。

長男の、同じく養子である劉封りゅうほう、嫡男である実子阿斗、この二人の公子の間に、公女惠姫けいきが誕生したのだった。惠姫とは、荊州の人々が壱与のことを惠風(春風のこと)のようだと言ったことから、劉備がつけた名である。人々は皆この縁組を祝った。正式な披露の儀が催され、親睦の意も兼ねて地方の名士らが荊州城に招かれた。

 兄となった劉封が惠姫の手を取って広間に現れると、客人たちは食い入るように惠姫を見つめた。いつもの飾り気のない清楚な美しさとは違い、紅をさして正装している惠姫はまたあでやかで、人の目を引き付けずにはおかなかった。

 その席で、劉備に促されて惠姫は舞を舞った。


  洛陽城東の路

  桃李 路傍に生ず

  花花 自ら相対し

  葉葉 自ら相当たる

  春風 東北より起こり

  花葉 正に低昂す


(洛陽の東、路傍に生えている桃や李が、花と花と競いあい、葉と葉と重なりあっている。 春風が東北から吹き起こると、花も葉も高く低く揺れる)


 惠姫は歌舞にも長けていた。長裙ちょうくんを振れば花びらが舞い、腰帯ようたいが翻れば春の香がにおい立つかに思われた。美しい声で歌いながら羽のように滑らかに舞う惠姫は、仙女と見まごうばかりであった。その姿に人々は、酒を飲むのも忘れて見とれたのだった。


 その翌日、朝も早くから荊州城の門前には、長蛇の列ができていた。ゆうべの宴で惠姫を見初めた、求婚者たちの列だった。

 惠姫が巫女であり人の妻にはならないことを、劉備が一日がかりで説明し続け、ようやく収拾がついたのだった。

「申し訳ありません。・・・ご迷惑をおかけして・・・」

 惠姫は劉備に出て行かないほうがいいと言われ、奥に控えていた。

「いいや、姫。娘の父親らしい気分が味わえて、私は嬉しいよ」

 劉備は惠姫をそば近くにおき、この上なく可愛がった。内侍令の身分と仕事は、惠姫の希望もありそのままにおかれたが、孔明のもとを離れ荊州城に住むことになった。


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