第2章 公女 1
梅や桃の花が処々に咲きほころび始めた、穏やかな春の日。
孔明は壱与を伴い、主君劉備玄徳の居城、荊州城の回廊を渡っていた。
やや緊張した面持ちの壱与に、孔明が振り向きほほ笑んだ。
「大丈夫ですよ、壱与姫。玄徳様も義兄弟の方々や諸将も皆、快く姫を受け入れて下さいます。何も心配することはございません」
少しはにかみながら、壱与は孔明を見てうなずいた。
二人は大広間の入り口に立った。扉が両側からゆっくりと開かれ、孔明が主座の劉備の前に進み出た。
「殿、こちらが以前からお話し申し上げておりました・・・壱与姫でございます」
孔明の後ろに隠れるようになっていた壱与が、一歩横に出て劉備に拱手し、深々と拝礼した。
「お初にお目通り賜ります。崔家の壱与と申します。このたびはお召しをいただきまして、ありがとうございます」
よく通る澄んだ声が、大広間に響いた。そして壱与が顔を上げると、その清らかな容姿に居並ぶ諸将の間から、ため息が漏れ聞こえた。
主座の劉備は高貴で威厳ある風貌ながら、温かい人柄をうかがわせる眼差しで壱与を見つめた。
これが壱与と劉備玄徳との、邂逅であった。
「よく来てくれた、壱与姫。もうすっかり元気になられたかな」
壱与の心にあった不安もおそれの気持ちも、すべて瞬時に消え去った。
「はい。孔明様のもとで、十分に静養させていただきました。・・・お気にかけて下さり、本当にありがとうございます」
物おじせず答える壱与を見て、劉備はほほ笑みうなずいた。そして壱与を義弟の関羽、張飛や主な家臣に紹介した。
劉備の両側に立ち並ぶ屈強な偉丈夫らの中にあって、かき消されそうな小さな少女でしかないはずなのに、壱与は不思議に確かな存在感を放っていた。
「姫。今までさぞ辛い思いをしてきたのであろう・・・。だがここには私達がいる。これからは私達を身内とも家族とも思って、安心しているように」
壱与は年端もゆかぬ小娘である自分に、寛大な優しさを示してくれる劉備に驚くと同時に、さすがは襄陽で臥龍(がりゅう:伏した龍=未だ世に出ぬ大人物)と呼ばれていた、孔明の仕える主君だと心底感銘を受けていた。
「ところで姫。突然のことだが、そなたに頼みたいことがある」
壱与は劉備の言葉に再拝礼した。
「私にできることでしたら、何なりと・・・」
「実は、姫に内侍令(ないしれい:女官頭)として、この城の奧向きを取り仕切ってもらいたいのだ」
壱与は驚きの余り、思わず拝礼していた顔を上げた。
「私の妻は二人とも早世して・・・また女官たちのなかにも才のある者がいないので、城の奥向きが雑然としているのだ。姫にはその才があると孔明から聞いている。どうか内侍令に、なってはくれまいか」
「・・・そのようなこと。孔明様が何とおっしゃられたのか存じませんが、私などにはとても・・・」
壱与は慌てて言ったが、劉備は重ねて壱与に頼んだ。そこで壱与は心を決めた。
「承知致しました。でもひと月だけ時間を頂とうございます。その間に私がどのくらいできるのか・・・その結果がお気に召しましてから正式に任命して下さいますよう、お願い申し上げます」
「いいだろう。やはり孔明の言った通り、そなたは賢い姫のようだ。ではひと月後を楽しみにするとしよう」
それからのひと月間、壱与は特に職制のなかった奥向きに整然とした制度を作り、荊州城の細かな日常のことがらはすべて、たちまちのうちに極めて円滑に行われるようになった。壱与はただ聡明なだけでなく、人を魅きつける性質も備わっていたので、年配の女官たちもよく壱与に従った。そして荊州の領民たち、とくに女子たちの手で細々と行われていた戦災孤児や怪我人、病人たちの世話所の規模を大きくして、孤児を育てる慈児所、いわゆる病院である慈療所、そして壱与が姉から教わった薬草を使って効果の高い薬を作り、領民に分け与える慈薬所を作り上げた。劉備はそんな壱与の才能に感服し、即座に内侍令の位を与えた。壱与は城の奥のことに加えて、その三つの慈所の運営をすべてこなし、多忙ながら充実した生活を送るようになった。
壱与は名目上孔明の妹ということになっており、城下の孔明の館に住んでいた。義妹ではあったが端から見ると、二人は仲のよい実の兄と妹のようであった。
壱与は劉備らにかわいがられ、領民たちも壱与を慕うようになり、一族を失いまた捕われの身であったこともうそのように、平穏な日々を過ごしていた。
そんなある日、孔明が壱与に言った。
「壱与姫、私の思ったとおりだ。姫のおかげでここはみちがえるようになった、ありがとう」
「何をおっしゃいます。感謝しなくてはならないのは私の方です。私が今こんなに幸せなのは、孔明様が私を助けて下さったからです・・・本当にありがとうございます」
「姫、あなたがここでの暮らしを幸せと思っているのなら、本当によかった。ただ体に無理をしてはなりませんよ。姫は十分によくやってくれています。実は今日は、玄徳様のお召しを受けているのです。姫にお話しがあるとのことです。私も今から出仕しますので、一緒に参りましょう」
壱与は孔明と連れ立って荊州城へ向かった。
外はいつしか陽春の季節となっていた。城まわりの堀の水辺には水仙が一杯に咲き乱れ、風に揺れて爽やかな芳香を放っていた。
「・・・姫。荊州の若い兵たちが姫のことを何と言っているか、ご存じですか?」
「え・・・いいえ・・・」
とまどう壱与に、孔明がほほ笑みながら言った。
「壱与姫様は、荊州に春を運んで来た・・・春風の神女のようだと・・・」
壱与はほのかに頬を染め、うつむいた。過去の陰りを感じさせなくなった壱与は、本来の娘らしさを取り戻してきていた。