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第1章 再会 4

 まだ春とは言えぬ時分であったが、温暖なこの地、桂陽けいようではそこここに椿が蕾をつけ、遠くない春の訪れを感じさせていた。

 赤壁せきへきでの戦いからふた月余り。劉備玄徳りゅうびげんとく軍師孔明こうめいの予見どおり荊州の南部、武陵ぶりょう長沙ちょうさ零陵れいりょう桂陽けいようの四郡を瞬く間に制圧し、漢王室の復興の悲願に向けての第一歩を、ようやく踏み出したのであった。


 ある日、太守たいしゅとなった趙雲ちょううんの務める桂陽の政庁に来客があった。太守次官の趙範ちょうはんが趙雲に知らせた。

「太守殿も隅におけませんな」

「何のことだ、趙範」

 趙範の意味ありげな言いように、趙雲が問い返した。

「先日、私が絶世の美女と名高い姉をお勧めしたときは、にべもなくお断りになったのに・・・どうりで、あのようなかわいらしい恋人がいらしたとは・・・」

「貴公は何か勘違いをしている。私にはそのような女子はいない」

 生真面目な趙雲は、いささかむっとして答えた。

「では今太守殿を訪ねて来た、あの佳人はどなたですかな」

 趙雲は思い当たるふしもなく、首をかしげながら客堂に向かった。


 趙範の言うとおり、そこにいたのは純白と言えるほどの白い肌に、やわらかな鳶色とびいろの瞳、桃の花びらのごとき唇の・・・清楚という言葉がまさにふさわしい、可憐な容姿の若い娘であった。

 娘は丁寧に趙雲に拱手きょうしゅし、拝礼した。

子龍しりゅう様。・・・さい壱与いよでございます」

「壱与・・・?」

 名を言われても、趙雲は思い出せない。

「ふた月前・・・長江で助けていただきました。あのときは本当に、ありがとうございました」

 趙雲はようやく気が付いた。

「ああ、あの巫女みこ姫ですか・・・。お元気になられたなら、何よりだ。いつこの桂陽に?」

「静養のため、ひと月前から孔明様のところに居りました」

 孔明は劉備が制圧した荊州の四郡の太守の長に任じられ、趙雲ら太守の総監をしており、劉備のいる荊州北部の公安こうあんの館とは別に、桂陽に小館を所有していた。

『そうだったのか・・・』

 趙雲はそれで得心がいった。普段私有財産にまったく興味を示さない孔明が桂陽に小館を所望したので、どういう風の吹き回しかと思っていたのだった。

 そのとき突然、壱与が趙雲の前で平伏した。

「子龍様には本当に、ご迷惑をおかけしました。入水じゅすいなどと、愚かなことを致しました。・・・お恥ずかしゅうございます・・・」

 孔明は以前趙雲に壱与の身の上を話してあった・・・周瑜しゅうゆとのことを除いては。そのことだけは終生孔明一人の胸に納められていた。

 趙雲は慌てて壱与に立ち上がるよう促した。

曹操そうそう軍に一族を殺され、巫女として孫権そんけんに捕らわれていたのだ・・・絶望したのも無理はない。だがもうあのような真似はしないと、約束して下さい」

 猛将ではあっても心根の優しい趙雲は、この幼げな姫に心から同情していた。壱与は顔を上げ、約束のしるしにほほ笑んで見せた。


「・・・・!」

 初花がこぼれたかと見まごう、ほほ笑みであった。

 女性の美醜にさして関心のない趙雲も思わず見入ってしまったほどの、人の心を和ます不思議な力を感じる、あたたかさに満ちた笑顔だった。

「・・・私はまもなく孔明様の上向に伴って、公安の劉備玄徳様のお城に連れて行って頂くことになりました。その前にどうしても子龍様に、直接お礼を申し上げたかったのでございます。それに今日は・・・もう一つ孔明様より、子龍様の主簿(しゅぼ:帳簿をつかさどる職)の方の代わりをしてくるようにと、言われて参りました」

「確かに・・・桂陽の主簿が病に伏せり困ってはいるが・・・姫は主簿がおできになるのですか」

「はい。このひと月、ずっと孔明様の主簿を致しておりました」

 趙雲は心底驚いた。この年端もゆかない娘に、仕事に厳しいあの孔明の主簿が務まっていたというのか。いったいこの姫は・・・?


 壱与が政庁の執務室で仕事を始めて、数刻後に孔明が趙雲を訪ねて来た。

「・・・壱与姫と一緒に来るつもりであったが、手の離せない仕事があり遅くなってしまいました。姫は、仕事中ですか」

「孔明殿。あれは本当にあのときの姫ですか・・・。みちがえるようにお元気になられて・・・その、このように可愛らしい姫だったとは・・・」

「先ごろ私が典医に推挙した医師呉普ごふが、以前は赤壁近くに居りましたので怪我を負った姫を預けていたのです。それからこちらに移して静養させていました。それでもこんなに早く、ここまでになるとは私も思っていませんでした。・・・大した精神力の持ち主です、壱与姫は」

 うなずきながら、孔明は満足げな笑みを浮かべていた。

「姫が言われたのですが、まもなく公安に行くとか・・・。孔明殿はあの姫をどうなさるおつもりなのですか。もしや奥方二人を亡くされた玄徳様の妻女に・・・」

 孔明は思わず破顔した。

「子龍殿、壱与姫はまだ十四になったばかり・・・殿とは親子ほども違います」

「そういえば噂に聞いたような・・・そうか貴公のところの佳人というのは姫のことで、やはり本当はその、貴公の・・・」

 人目に立たないようにしてはいたのだが、孔明の別荘に佳人かじんがいるということは、いつの間にか人々の口の端にのぼり始めていた。

「全く、そんな埒もない話が・・・。姫のことを私が桂陽に隠している側妻そばめだとかいう、勝手な噂が立って困っているのです。子龍殿までそのようにおっしゃっては、年若い姫に気の毒です。私とて姫には倍にもなる歳。壱与姫は昔から私の妹のように思っていた姫です。それに以前申し上げたと思いますが、姫は神に仕える巫女なので人の妻にはなりません。私は姫を、城の内侍令(ないしれい:女官頭)に推挙するつもりです。殿が奥方を亡くされているので、城の奥向きがあまりにも雑然としている。あのままでは御嫡男、阿斗あと様の養育にも差し支えてしまいます」

「いやつい、失礼を申した・・・許されよ孔明殿。しかし姫はかなり聡明なようですが、たいていの女官は姫より年上・・・十四の姫に内侍令がつとまりますのか」

 笑いながら孔明は言った。

「壱与姫は九才のころから病弱だった母親と、すでに巫女として高名で家を離れていることの多かった姉姫のかわりに、崔家の女主人として立派に屋敷を取り仕切っていましたよ。その姫には造作もないことです。姫はきっとその聡明さで殿や、我々の助けになってくれることでしょう」

「・・・それは、孔明殿の実の妹君とも言われそうですね。それにあの可憐な美しさだ。巫女とは言っても兵たちが騒ぐでしょうな」

「城が華やかになるのも、いいことではありませんか」


 まもなく仕事を終えた壱与が帳簿を持って現れ、談笑していた二人に一礼した。孔明はその帳簿に素早く目を通すと言った。

「・・・いいでしょう。姫、ご苦労でした」

 孔明が帳簿を見て一度でよしとした主簿など、趙雲は見たことがなかった。

 この風にも耐えぬように見える細腰の清楚な娘が、実は一族を殺され、江東に捕われの身であったなどと、誰が思うであろうか。それを乗り越える精神力と、その上この孔明が認める聡明さを持つとは・・・

 趙雲はこの佳人が主君劉備の陣営に、少なからぬ影響をもたらすことになるであろうと、この時予感していた。


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