第9章 結実 4
「崔夫人・・・」
孔明がいなくなってから、呉普が口を開いた。
「あなたのお体は、やはり御出産に耐えられますまい・・・。残念ですが・・・」
壱与はうなずいた。
「覚悟はできております。呉普様、どうか私と孔明様の子を・・・、取り上げて下さいね・・・」
「・・・壱与様」
押し殺した声で、呉普は言った。
「私はあなたが・・・哀れでなりません・・・」
「・・・・」
「やっと女として幸せになられる時が来たというのに・・・これからという時に・・・あなたは・・・」
「呉普様・・・」
静かに壱与は言った。
「・・・この乱世、多くの人がはかなく命を落としています。また名家に生まれたとしても、意にそまぬ結婚を強いられる女子たちも多くいます。なのに私は、愛する人と結ばれ、その方のお子を身ごもっている・・・。これ以上のことを望んだら、罰が当たります」
「壱与様・・・」
「呉普様。あなたにお礼を申し上げなくては。・・・今まで何度も私の命を救って下さり、本当にありがとうございました。私がこうして孔明様の妻となり、そのお子を身ごもることができたのも、呉普様の下さった命のおかげです。・・・いくら感謝しても足りません・・・」
「・・・とんでも、ございません・・・」
涙をこらえ、呉普はやっと言葉を発した。
「どうか孔明様には私の体のことは・・・必ず言わないままに、しておいて下さいませ」
それから二月ほど後、春節(新年)を迎えて間もない冬の朝、早めに月が満ちて壱与の陣痛が始まった。
夜明け前の閨房で、疲れて休んでいる孔明を起こさぬよう、声を上げず壱与は痛みに耐えていた。痛みは次第に強くなり、壱与のわずかな呻き声に孔明が気づいて目覚めた。
「壱与!陣痛か・・・?」
「・・・申し訳ありません・・・大丈夫ですから・・・」
平気を装おうとしたが、陣痛は弱い壱与の体を切り刻むように襲ってくる。天蓋の支柱を握り締めていた壱与の手を、孔明が取って握った。
「壱与・・・。がんばってくれ」
壱与は痛みの小休止に、孔明を見つめていた。
子を生み死んでゆくにしても、愛する人の姿を、心に焼き付けておきたかった。
「壱与・・・今日は出陣前の重要な軍議がある。私はもう行かねばならない・・・」
「・・・どうぞお行きになって。お帰りになるころには、身二つになって・・・お待ちしておりますから・・・」
壱与は痛みをこらえながらほほ笑み、孔明を安心させた。今一度壱与を抱擁すると、孔明は宮殿へと向かった。
軍議が終わったのはもう夕刻だった。丞相府からの使者が外に控えていた。
「生まれたのか・・・?」
孔明が尋ねると、使者は首を横に振った。
「大変な御難産で、未だお生まれにならず・・・奥方様はひどくお苦しみの様子でございます」
孔明は急いで丞相府の壱与の所へ戻った。一緒に軍議を終えた趙雲、馬謖らもあとを追った。
丞相府に着くと、孔明らは壱与の産室の隣の間で出産を待った。
もう夜も更けてきたのに、なかなか生まれる気配はない。孔明は祈るような気持ちだった。
『がんばってくれ、壱与。どうか無事に・・・』
その時、突然に張り詰めた空気を破り、産声が響きわたった。
孔明は白羽扇を取り落とし、立ち上がった。
「お生まれになりました!男の子です!御嫡男でございます!」
呉普が知らせた。みな歓声を上げ、口々に孔明に祝いの言葉を述べた。
「呉普殿!壱与は・・・」
「・・・御無事で、ございます・・・」
『ああ、よかった・・・』
孔明が産室に入ると、壱与は疲れ切った様子で瞳を閉じていた。
「壱与・・・」
呼びかけると、壱与はうっすらと目を開けた。
「御苦労だった・・・壱与。ありがとう、元気な男の子だ」
壱与はかすかにうなずくと、そのまま眠ってしまった。その横に生まれたばかりの赤子がいる。色は両親に似て白く、顔立ちは少しずつ孔明にも壱与にも似ている。
「私の子だ・・・」
感激のあまり、孔明の両目から涙があふれた。
孔明が四十五歳にして初めてもうけた嫡男、諸葛瞻がここに誕生したのだった。
孔明は眠っている妻と子をながめながら、いつしか椅子にすわったまままどろんでいた。
夢の中で孔明は、崔州平と学問のため壱与の父親を訪ね、十歳だった壱与に初めて会った場面にいた。
『これは・・・あのときの壱与ではないか・・・』
夢のなかの壱与は、次の瞬間大人になり、孔明の腕の中にいた。
『あのとき、まだ幼い崔家の姫君だったあなたが・・・こうして私の妻になり、子供を生み授けてくれた・・・。思いもかけぬ運命だったのですね・・・』
壱与の鳶色の瞳が、微笑を含んで孔明を見つめていた。




