第8章 南征 4
戦が終わったのでほとんどの兵は成都へ帰還させたが、孔明自身は南蛮国の行政指導に当たる数名の文官と、護衛のわずかな部隊とともに残り帰国を延期し、壱与のそばにいてでき得る限り、手ずからその看病をした。
孟獲の兄の薬を飲んでから、壱与の体温は次第に正常に戻っていった。だがまだ意識は戻らず、呼吸も脈も弱い。
そんなある晩、孔明は一人南国の夜空を見上げていた。
『天よ・・・』
壱与の本復の願いを込め、孔明は祈った。そして目を上げたとき、流星が横切るのを見た。
「あれは・・・!」
流れたのは壱与の巫女星だった。壱与は天から巫女の任を解かれたのだ。だが同時に巫女でない壱与を示している隣の星が、不意に輝きを増した。それを見た孔明は急いで壱与のところに戻った。まだ目覚めてはいなかったが、顔には生気が蘇っている。呼吸も、脈も、もとの調子を取り戻していた。
「・・・壱与姫!・・・壱与姫!」
壱与の耳元に、幾度となく孔明は呼びかけた。
その声に少しずつ壱与は覚醒し、そしてついにはっきりと瞳を開いた。
「姫・・・!」
壱与はわずかずつ首を動かし、ゆっくりと顔を孔明の方に向けた。
「壱与姫!私です、わかりますか!」
壱与は孔明を見つめ、うなずいた。
「・・・孔明・・・様・・・」
久方ぶりに聞く壱与の声が、嬉しく心に染み入ってくる。
「ああ・・・よかった。本当に・・・よかった。今度こそあなたを失ってしまうのかと、生きた心地もしなかった・・・」
孔明の目に涙を認め、壱与はとまどった。
「孔明様・・・なぜここに・・・。戦は、戦はどうなったのでございますか・・・?」
「戦は終わりました。漢(蜀漢:しょっかん)は南蛮国と和議を結んだのです。壱与姫・・・あなたが来て下さったおかげです」
壱与は大きくかぶりを振った。
「とんでもございません・・・病に倒れ、軍の足手まといになったことを・・・どうぞお許し下さい・・・」
「何を言う!女の身であるあなたをこんな南蛮の地に呼び付けて・・・苦労をかけ、苦しませた私が悪いのです。どんなに詫びてもつぐなえぬ・・・許して下さい、壱与姫・・・」
軽くかぶりを振ると、壱与は孔明から目を背けた。
「私は・・・天から巫女の任を、解かれました・・・。もう国のために力を使うことができない・・・私は役に立たぬ、ただの女になってしまいました・・・」
横を向いたまま、壱与は泣いた。
「いいや、姫。あなたは私にとって、なくてはならない人なのだ。・・・壱与姫、あなたを失うかと思った時、私はやっと気づいた。・・・私は自分でも知らぬ間に・・・いつしかあなたを、愛していたのです」
『え・・・?』
壱与は驚いて向き直った。
孔明が何を言ったのか、あまりにも意外な言葉を耳にして、とてもにわかには理解することができなかった。
「・・・孔明・・・様?」
『私は・・・まだ熱のあまりに・・・夢を見ているのだろうか・・・』
孔明が自分に、愛を告げている。そんなことがあろうはずが・・・
だがこれは現実であり、目の前の孔明はその言葉を続けている。
「壱与姫、これが偽らざる私の気持ちだ・・・あなたを、愛している。巫女でなくなったのであれば・・・どうか私の妻に、なっては下さいませんか・・・」
孔明の言葉の意味することが、ようやくのことで分かってきた。
心の奥底に固くしてあった封印が今解かれ、積年の想いがあふれ出し、ゆっくりゆっくり壱与の心を満たしていった。
壱与は驚きと喜びで、新たな涙にむせんだ。
そして片手を孔明の方に差し出し、その手を孔明がとった。
「夢では・・・ないのですね・・・、孔明様。私もずっとずっと長い間、心の奧で・・・孔明様を、想っていたのです・・・」
「それはまことですか・・・姫」
壱与はうなずいた。
「私も、自分では気づいていなかった・・・。それを気づかせて下さったのは・・・士元(しげん:龐統士元)様でした・・・」
孔明は驚いた。
「士元殿が・・・。あなたは、そんなにも前から・・・」
「・・・永遠にかなわぬことと、思っていたのに・・・」
壱与は涙の顔を上げ、上体を起こそうとした。その体を孔明が抱きとめた。
「壱与・・・!」
「孔明様・・・!」
二人は息も継げぬほど、しっかりと抱き合った。
夏用の薄衣を通して、孔明の体温と鼓動が、直に壱与へと伝わってくる。
『ああ・・・こんなに満ち足りた場所が、この世にあったのだ・・・』
それは切望しながらも長いこと帰れず、もうその望みをあきらめていた生まれ故郷に帰ったかのように・・・大きく、温かく、そしてこの上なくいとおしい・・・孔明の胸だった。
「私の妻に、なって下さるのですね」
壱与は涙で声にならず、孔明に抱き締められたままうなずくだけだった。
「壱与・・・」
孔明は壱与の顔をそっと上に向けた。
壱与の唇から小さな声が漏れたが、それはすぐにふさがれた。
『孔明様・・・』
二人は初めての、長い長い口づけを交わした。




