表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/40

第8章 南征 4 

 戦が終わったのでほとんどの兵は成都せいとへ帰還させたが、孔明こうめい自身は南蛮国なんばんこくの行政指導に当たる数名の文官と、護衛のわずかな部隊とともに残り帰国を延期し、壱与いよのそばにいてでき得る限り、手ずからその看病をした。

 孟獲もうかくの兄の薬を飲んでから、壱与の体温は次第に正常に戻っていった。だがまだ意識は戻らず、呼吸も脈も弱い。


 そんなある晩、孔明は一人南国の夜空を見上げていた。

『天よ・・・』

 壱与の本復の願いを込め、孔明は祈った。そして目を上げたとき、流星が横切るのを見た。

「あれは・・・!」

 流れたのは壱与の巫女星みこぼしだった。壱与は天から巫女の任を解かれたのだ。だが同時に巫女でない壱与を示している隣の星が、不意に輝きを増した。それを見た孔明は急いで壱与のところに戻った。まだ目覚めてはいなかったが、顔には生気が蘇っている。呼吸も、脈も、もとの調子を取り戻していた。

「・・・壱与姫!・・・壱与姫!」

 壱与の耳元に、幾度となく孔明は呼びかけた。

その声に少しずつ壱与は覚醒し、そしてついにはっきりと瞳を開いた。

「姫・・・!」

 壱与はわずかずつ首を動かし、ゆっくりと顔を孔明の方に向けた。

「壱与姫!私です、わかりますか!」

 壱与は孔明を見つめ、うなずいた。

「・・・孔明・・・様・・・」

 久方ぶりに聞く壱与の声が、嬉しく心に染み入ってくる。

「ああ・・・よかった。本当に・・・よかった。今度こそあなたを失ってしまうのかと、生きた心地もしなかった・・・」

 孔明の目に涙を認め、壱与はとまどった。

「孔明様・・・なぜここに・・・。戦は、戦はどうなったのでございますか・・・?」

「戦は終わりました。漢(蜀漢:しょっかん)は南蛮国と和議を結んだのです。壱与姫・・・あなたが来て下さったおかげです」

 壱与は大きくかぶりを振った。

「とんでもございません・・・病に倒れ、軍の足手まといになったことを・・・どうぞお許し下さい・・・」

「何を言う!女の身であるあなたをこんな南蛮の地に呼び付けて・・・苦労をかけ、苦しませた私が悪いのです。どんなに詫びてもつぐなえぬ・・・許して下さい、壱与姫・・・」

 軽くかぶりを振ると、壱与は孔明から目を背けた。

「私は・・・天から巫女の任を、解かれました・・・。もう国のために力を使うことができない・・・私は役に立たぬ、ただの女になってしまいました・・・」

 横を向いたまま、壱与は泣いた。

「いいや、姫。あなたは私にとって、なくてはならない人なのだ。・・・壱与姫、あなたを失うかと思った時、私はやっと気づいた。・・・私は自分でも知らぬ間に・・・いつしかあなたを、愛していたのです」


『え・・・?』

 壱与は驚いて向き直った。

孔明が何を言ったのか、あまりにも意外な言葉を耳にして、とてもにわかには理解することができなかった。

「・・・孔明・・・様?」

『私は・・・まだ熱のあまりに・・・夢を見ているのだろうか・・・』

 孔明が自分に、愛を告げている。そんなことがあろうはずが・・・ 

だがこれは現実であり、目の前の孔明はその言葉を続けている。

「壱与姫、これが偽らざる私の気持ちだ・・・あなたを、愛している。巫女でなくなったのであれば・・・どうか私の妻に、なっては下さいませんか・・・」


 孔明の言葉の意味することが、ようやくのことで分かってきた。

 心の奥底に固くしてあった封印が今解かれ、積年の想いがあふれ出し、ゆっくりゆっくり壱与の心を満たしていった。

 壱与は驚きと喜びで、新たな涙にむせんだ。

そして片手を孔明の方に差し出し、その手を孔明がとった。

「夢では・・・ないのですね・・・、孔明様。私もずっとずっと長い間、心の奧で・・・孔明様を、想っていたのです・・・」

「それはまことですか・・・姫」

 壱与はうなずいた。

「私も、自分では気づいていなかった・・・。それを気づかせて下さったのは・・・士元(しげん:龐統士元)様でした・・・」

 孔明は驚いた。

「士元殿が・・・。あなたは、そんなにも前から・・・」

「・・・永遠にかなわぬことと、思っていたのに・・・」

 壱与は涙の顔を上げ、上体を起こそうとした。その体を孔明が抱きとめた。

「壱与・・・!」

「孔明様・・・!」

 二人は息も継げぬほど、しっかりと抱き合った。

夏用の薄衣を通して、孔明の体温と鼓動が、直に壱与へと伝わってくる。

『ああ・・・こんなに満ち足りた場所が、この世にあったのだ・・・』

 それは切望しながらも長いこと帰れず、もうその望みをあきらめていた生まれ故郷に帰ったかのように・・・大きく、温かく、そしてこの上なくいとおしい・・・孔明の胸だった。

「私の妻に、なって下さるのですね」

 壱与は涙で声にならず、孔明に抱き締められたままうなずくだけだった。

「壱与・・・」

 孔明は壱与の顔をそっと上に向けた。

壱与の唇から小さな声が漏れたが、それはすぐにふさがれた。

『孔明様・・・』

 二人は初めての、長い長い口づけを交わした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ