第8章 南征 3
孟獲を捕らえる、何と七度目の戦いが始まった。
しかしやはり今度も孔明の前に孟獲は敗れ、ついに孟獲は孔明に心からの服従を誓った。長い戦いはやっと終わった。孔明は孟獲とその一族すべてを許し、漢(蜀漢:しょっかん)と南蛮国は真の友好を結んだのだった。
大掛かりな祝宴が催され、皆喜びに酔いしれた。
『壱与姫は、いかがしたろう・・・』
宴の席で孔明は思った。戦が終わるまで兵の士気が落ちぬよう、壱与の病状は知らされないままだった。自分にも知らせてくれるなと、孔明は呉普に言い置いてあった。
孔明は急に壱与のことが気掛かりでたまらなくなった。そしてまさにその時、呉普が宴の場に飛び込んで来て、孔明に告げた。
「申し上げます、閣下!崔貴人、壱与様が御危篤でございます・・・!」
孔明は杯を取り落として立ち上がった。
杯は音を立てて床に砕け、破片があたりに飛び散った。
孔明は心の臓を深くえぐられたような気がした。そしてその瞬間、ある重大なことに気が付いた。
呉普の声に、居並ぶ兵たちも動揺していた。壱与は過労で大事をとっていると聞かされていたのに、突然危篤とは・・・。
「閣下・・・!」
孔明は体中が震え、顔面は蒼白だった。いつものように泰然と自分を保つことが、どうしてもできない。
『私は、私は取り返しのつかぬことをしたのではないか・・・!』
孔明は叫んだ。
「崔貴人のところへ行く!」
孔明は諸将や孟獲一族を残したまま、壱与のいる救陣へと駆けつけた。
「壱与姫!」
壱与は寝台に静かに横たわっていた。
一見ただ眠っているように見えるが、その顔にはかすかに、だが確実に死の影が迫っている。孔明は壱与のほほに手を触れた。ほほは、冷たくなってきていた。体温が下がり始めている。
「壱与姫!死なないでくれ!」
孔明の両目から涙があふれた。
「壱与!壱与!・・・ああ何ということだ!私は今になってやっと気づいた。私は、私はそなたを愛しているのだ・・・!」
十三のとき孔明に再会し江東から助け出された壱与は、それから十七年間孔明と共にいた。孔明にとって壱与は妹のようでもあり、心から信頼する親友でもあり、劉備のために命懸けで働き苦楽を共にした、同志と言えるような存在でもあり、そして今は・・・
「そなたを愛している!死なないでくれ、壱与!」
孔明の涙は壱与の上に幾しずくも落ちた。しかし壱与は返事をしない。体は冷たくなってゆく一方だ。
その時、天幕の外から声が聞こえた。
「閣下!」
声の主は、薬草の場所を案内してくれたあの隠士だった。その後ろに呉普と、そして孟獲がいる。
「閣下!この薬を崔貴人に!」
隠士は孔明に粉薬を手渡した。
「あなたはあの時の・・・。なぜここに・・・?」
後ろの孟獲が答えた。
「呉普殿から事情をお聞きしました。丞相閣下のために私がして差し上げられる、せめてもの気持ちとして兄を呼びました。兄は熱病の秘薬に長じておりますゆえ」
「何と、あの時の隠士殿が、貴殿の兄上だったとは・・・」
王族を離れ隠遁の生活をしていた孟獲の兄は、熱病に苦しむ漢軍の惨状をみかねて、孔明に薬草を分けてくれたのだった。
「さあ、一刻も早くその薬を・・・」
孔明は薬湯を作り、口うつしに壱与の冷たい唇に飲ませた。
『どうかよみがえってくれ・・・!壱与!』




