第8章 南征 1
「なぜだ!なぜ丞相は宮廷に出仕せぬのだ!」
皇帝劉禅はあせりと怒りで取り乱していた。
劉備が崩御した期に乗じて、魏が漢(蜀漢:しょっかん)を囲んで五方向からの攻撃を準備しているという情報が入ったのだ。しかし丞相孔明はこのところ全く宮殿に姿を見せていない。玉座でうろたえている劉禅を、重臣たちが慌ててなだめた。
「丞相閣下は、御病気ということでございますれば・・・」
「病気、病気といつまで出仕せぬつもりだ!その上崔貴人もおらぬではないか!」
「ですから崔貴人は閣下の御病気がお篤いゆえに、看病のため丞相府につききりとのことでございます」
孔明が病と称して出仕しなくなり、劉禅は再三勅使を遣わしたのだが、いつも門前払いをくって全くらちがあかないのだった。
「もうよい!本当に病なら、朕が直々に見舞いに行く。馬を引け、馬を!」
こうしてついに、劉禅自ら丞相府へ行くこととなった。
壱与が意識を取り戻した時、目に映ったのは見知らぬ部屋だった。
「ここは・・・?」
床から起き上がろうとしたが、背中に攣れたような痛みが走った。
「あっ・・・」
壱与は再び床に倒れ込んだ。その気配に呉普が部屋に入って来た。
「崔貴人!まだ起き上がってはなりません」
「呉普様・・・私は・・・」
「やっとお気づきになられましたか。・・・何日もお眠りでいらっしゃいました」
壱与は傷を負ったことを思い出した。
「私・・・それでは助かったのですね。呉普様、またお世話をかけてしまいました・・・申し訳ありません」
「何を申されます。とにかくお気が付かれて本当によかった。閣下に御報告を・・・」
「閣下・・・?待って下さい。ここは・・・どこなのですか」
「ここは丞相府の、孔明様の館でございます」
「孔明様の・・・?それでは、私のことは・・・私のいない宮中のことは・・・どうなっているのですか」
そこで呉普は、孔明が病と称してしばらく出仕していないこと。そして壱与はその看病をしていることになっていると話した。
「出仕をしていないなどと・・・何のためにそのようなことを・・・」
「私にもはっきりとは・・・。ただ閣下は国事について、ひどくお悩みの御様子でございました・・・」
孔明の考えを推しはかることはできなかった。しかし壱与は劉備亡き後、この国を脅かす者たちの気配が迫るのを、急に間近に感じる気がした。
劉禅は丞相府に到着し、表の庭で久々に孔明と会っていた。
始めは怒っていた劉禅も、孔明が出仕しなかった間に、魏の五方向からの攻撃に対する防御策をすべて考えついていたので、大きく安堵したところだった。
「さすがは丞相。・・・この国のことを思い悩んでいたというのに、そなたの真心を疑った私を、許してくれ」
「何を仰せになります。長く出仕を致しませず、御無礼をお許し下さい」
「とにかく丞相が重病というのが・・・まことでなくてよかった」
「申し訳ありませぬ。が、実は・・・」
孔明が眉をわずかにひそめた。
「生死の境をさ迷っておられたのは、私ではなく崔貴人なのです」
「姉・・・いや崔貴人が?それはどういうことなのだ」
その時、小走りの足音が近づいて来た。
「・・・陛下!」
孔明と劉禅が振り向くと、驚いたことに壱与がそこにいた。
庭に面した回廊の欄干で身を支え、肩で大きく息をしている。劉禅の来訪を知り、病床を抜け出てきたのだった。
「姉上!」
「崔貴人!起き上がるなどして・・・よろしいのですか」
壱与は庭への階を駆け降り、劉禅の前で平伏した。
「申し訳ございません・・・!貴人太君という不相応な身分をいただきながら出仕もせず・・・皇帝陛下に不忠の振る舞いを致しました。いかなる処分も甘んじてお受け致します・・・」
「姉上、何を申される・・・!御手を上げて下さい」
「どうか姉上と呼ぶのは・・・もうおやめ下さいませ」
「そんなことより、本当にいかがなされたのです・・・その御様子は」
劉禅が腕を取り、ようやくのことで立ち上がらせた壱与はひどく軽く、顔色は透けるように蒼い。そのとき呉普が走り込んで来た。
「崔貴人!・・・そのお体で何ということを」
息も絶え絶えにあえいでいた壱与は、劉禅の腕の中で貧血を起こして失神した。
「姉上・・・!呉普!これは何としたことだ」
「申し訳ございません。目を離した間に寝室を抜け出されまして・・・」
「姉上・・・こんなにおやつれになって・・・。いったい姉上はどうしたのだ、丞相!」
「・・・とにかく崔貴人を寝室へ。そのあとでお話し致します」
壱与は再び寝室に寝かされ、その外で劉禅は孔明からすべての事情を聞いていた。
「何と・・・姉上は刺客の手に・・・。おいたわしや・・・」
「崔貴人は、帝位につかれたばかりの陛下を動揺させることを懸念なさり・・・お一人で隠して、耐えていらっしゃいました。そして御自身の存在が、陛下の政の災いとならぬよう・・・公主(こうしゅ:皇女)の身分をお捨てになられたのです」
「ああ姉上・・・私の未熟さを許されよ・・・。姉上が臣下に降りられたわけがやっとわかった。この姉上に権力への野心などあろうはずもないのに、このような目にあわれるとは・・・」
帳の内で、壱与が目覚めた気配がした。
「姉上・・・」
劉禅は壱与のところに駆け寄った。
「姉上。あなたは未熟な私のために・・・一人で苦しんでいらしたのですね・・・。私を許して下さい、姉上・・・」
壱与は驚いて、床から半身を起こした。
「何をおっしゃいます、陛下。このたびのことは、ただ私の不徳の致すところ・・・どうかそのようなことを仰せにならないで下さいませ。それに姉上と呼ぶのも、もうおやめ下さい」
「いいや、たとえ皇族を離れ、臣下に降りられようとも、あなたは私の幼いころから母がわりに慈しみ、育てて下さった大切な姉上。せめて二人の時は、姉上と呼ばせて下さい」
「陛下、もったいのうございます・・・」
壱与の瞳が潤んだ。
「早く元気になって下さい。あなたは私のかけがえのない、たった一人の姉上なのですから」
「陛下・・・」
二人は抱き合って、しばらくは互いに涙で声が出せなかった。




