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第7章 崩御 2

 間もなく帝国の守りに丞相じょうしょう孔明こうめい趙雲ちょううんらを残し、国の総力を結集した大軍を率いて劉備りゅうびは出陣した。

 呉(ご:劉備の出陣直後、孫権そんけんは領地を呉の国とした)との国境の荊州けいしゅうに入った劉備軍は、孫権軍との戦の火ぶたを切り、めざましい戦果をあげた。

劉備のことが気掛かりでならない惠姫けいきだったが、戦況のよい知らせが続くので、不安な予感は杞憂きゆうであったかと思ったくらいであった。だが負け続きだった孫権軍は、ついに猛反撃に出た。実は負け続けたのは作戦のうちであり、慢心していた劉備軍に火攻めの奇襲をかけ、劉備軍は大敗北をきっしてしまった。劉備は荊州と益州えきしゅうの境、白帝城はくていじょうに敗走し、漢(蜀漢:しょっかん)は荊州における勢力基盤を、完全に失ってしまった。

 その後魏(ぎ:曹丕そうひの国)に対抗するために呉より和平の申し入れがあり、漢は呉と赤壁せきへきの戦い以来の友好関係を回復した。しかし劉備は高齢に無理な遠征と仇討ちの失敗の心労がたたり、成都せいとに帰還できぬまま、白帝城で病褥びょうじょくに伏してしまったのだった。


 成都の孔明は城の高楼こうろうに昇り、天文を見ていた。劉備の星の輝きが弱くなっている。

『陛下・・・』

 孔明は袖で顔を覆い、苦渋に満ちた深いため息をついた。皇帝不在の成都城の夕暮れは、もの寂しく静まり返っていた。目を閉じ身じろぎもせず、孔明はそこに佇んでいた。

 そのとき遠くから、衣ずれの音が近づいて来るのが聞こえてきた。小走りのその音はきざはしを駆け昇り、孔明のすぐ後ろで止まった。

「丞相閣下・・・」

 惠姫だった。

「すぐに玄徳げんとく様のもとへご出立なさって下さい。永皇子えいおうじ理皇子りおうじとともに・・・。支度はすべて整っています」

「惠姫様・・・」

「猶予はなりません。一刻も早く・・・。私が皇太子(劉禅:りゅうぜん)と残りますから・・・」

「何か夢占ゆめうらにでも・・・出たのでございますか」

 惠姫は答えなかった。しかしその瞳はすべてを知り、覚悟しているのが孔明には見て取れた。

「ありがとうございます・・・。丞相孔明、ただちに出立致します」

 惠姫には劉備が余命いくばくもないことが分かっていた。本当なら自分も、何を置いても劉備に会いたかった。しかし今何より大切なのは、劉備が丞相である孔明に、後事の遺言を必ず伝えられるようにすることだった。

『もう私には、どうすることもできないのだから・・・』

 東の白帝城の方を仰ぎ、惠姫はつぶやいた。

『さようなら・・・。大好きなお父様、玄徳様・・・』


 出陣した父、皇帝劉備に万一のことがあったときのため白帝城に行くことを許されず、惠姫と成都に残された劉禅は、孔明も行ってしまいますます劉備の病状を案じて、不安に胸のつぶれる思いだった。惠姫はそんな劉禅を慰めるため、なるべくそば近くで過ごすようにしていた。今の呉皇后ごこうごうは義理の母で、劉禅にとっては実の母を亡くした直後から母親がわりに育ててくれたのは姉となった惠姫であり、誰よりも慕っていたのだった。

 そんな姉弟二人がともにいるのは何も不自然なことではなかったのだが、それを快く思わない者もいた。公主(皇女)であり有能な巫女みこであり、劉備、劉禅はもとより家臣たちや国民からも絶大な信頼を得ている惠姫は、劉備亡き後皇帝となる劉禅の後見として権力を振るおうとする者にとっては、目障りな存在であった。皇帝劉備や丞相孔明のいない間にさらに劉禅に近づいている惠姫を、今のうちに何とかせねばと狙う家臣の一人が、隠密に宮殿に刺客しかくを潜ませた。


 孔明が二人の幼い皇子と白帝城に駆けつけた時、すでに劉備は危篤状態に陥っていた。

 孔明の声に、病床の劉備は弱々しく目を開いた。

「・・・来てくれたか、孔明・・・」

「陛下・・・。惠姫様のお計らいで、急ぎ参りました・・・」

「惠姫か・・・そういえば今し方、惠姫の子守歌が聞こえた気がしたのだが・・・惠姫は、来ておらんのだな・・・」

「陛下や私に代わって、成都で劉禅様と皇后様をお守りし、重臣たちと政務をみて下さっております」

「・・・幸せにしてやりたくて、そなたから引き取ったのに・・・苦労ばかりかけて何もしてやれなかった。思えば惠姫は、私のどの妻よりも長くそばにいて、奥向きを完璧に整え、劉禅を育て、戦場にまでも共にいて、妻以上に私を支えてきてくれた・・・。今一度会いたかったが、もはやそれもかなうまい・・・孔明、かわりに詫びを伝えてくれ・・・」

「何をおっしゃいます、陛下!」

「何よりそなたに詫びねばならぬ・・・。そなたの忠告を無視して呉に出陣した・・・この愚かな私を許してくれ・・・」

「陛下・・・。もうそのようなことを仰せになるのは、おやめ下さい・・・」

 劉備はゆっくりしとねから腕を伸ばし、孔明の手を取った。

「そなたの才は曹丕の十倍はある。必ず国を安定させ、天下統一の大事業を成し遂げることができるだろう。・・・劉禅のことを頼む。私の果たせなかったことを・・・私は劉禅に託したいのだ。孔明・・・劉禅を補佐してやってくれぬか」

「それはもちろんのことでございます」

「・・・しかし、わが息子に皇帝たる才覚なしとわかれば、孔明。そなたが代わって帝国を治めてくれ」

 何という類い希な、並外れた徳の広さであろうか・・・孔明はこみ上げてくる感情に、全身が痛いほど震えていた。

「陛下、それはできません。私は陛下の三顧の礼(劉備が孔明を軍師に迎えるために、三度その庵を訪ねたこと)に報いるために出盧した時より、終生陛下にお仕えすることだけを考えてまいりました。これからも必ずや陛下の御意志の実現に向けて、命果てるまで劉禅様を補佐する所存にございます・・・!」

「・・・ありがとう孔明、そなたはまことの忠臣だ・・・」

 劉備は二人の皇子をそば近くに呼んで遺言した。

「永、理。おまえたち兄弟は劉禅とともに、これからは丞相を父と思って仕えるのだぞ・・・」

 劉備は瞳を閉じながらつぶやいた。

「・・・ああまた、惠姫の子守歌が聞こえる・・・やすらかに眠れそうだ・・・」

 劉備の息遣いが荒くなった。

「陛下!」

「・・・孔明、さらばだ・・・」

 ひとたび孔明の名を口にして、劉備は静かに永遠の眠りについた。

孔明は耐えてきた悲しみをこらえきれず、大粒の涙をこぼした。昭烈帝しょうれつてい劉備玄徳はここに六十三年の生涯を閉じ、崩御ほうぎょした。


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