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第1章 再会 3

 壱与いよはあたたかいところを漂っていた。

冬の江に身を投げたはずなのに、なぜここは冷たくないのだろう。まるで母の胎にでもいるように、心地よいぬくもりの中に壱与は包まれていた。最初は感覚のなかった体に徐々に感覚がよみがえり、嬰児えいじのように体を丸めていた壱与は、ゆっくりと体を伸ばそうとした。

「あ・・・っ」

 瞬間、鋭い痛みが体を走り、壱与を現実の世界へと覚醒させた。


「動いてはなりません!」

 耳元で声が聞こえた。

「動いてはなりません。また傷が開いてしまいます」

 孔明こうめいの声だった。壱与は乾いた布で幾重にも体を包まれ、孔明の腕の中にいた。壱与は自分が何をしたのか、ようやく思い出した。

「姫・・・あなたの身に何があったのか、察しはつきました・・・」

 壱与は恥ずかしさと情けなさで、消え入りたい心地だった。

「壱与姫・・・」

 孔明は壱与を抱きなおし、子供をあやすように壱与をなでた。

「あなたは今やさい家に残されたただ一人であり、有能な莎英さえ姫の力を託された巫女であり・・・何よりあの英邁なお父上の才を受け継ぎ、子供のない崔州平さいしゅうへいもわが子のように愛していた姫だ・・・。どうかもう命を断とうなどと考えず、私と玄徳げんとく様のところに参りましょう」

 だが壱与はうつむいたまま、激しく首を横に振った。

「ですから・・・私は身を汚されたのです・・・巫女の力はもう・・・」

「姫!」

 驚くほど強い口調で孔明が遮った。

「私が天文を読めるのをご存じでしょう。先程星を見ましたが、姫の巫女星は落ちる気配など全くありません。あなたの巫女星は凌辱にも汚される事なく、輝き続けています」

 壱与は初めて目を上げ、孔明を見た。

「そんな・・・そんなはずは・・・」

 処女おとめを失えば巫女の力は失われると、壱与は姉に教えられていた。

「なぜかは分かりませんが、あなたは長江ちょうこうに身を投げた・・・もしや江がみそぎとなり、あなたの汚れを祓ったのかもしれません」

「・・・・」

「あなたは江の禊を受け、生まれ変わったのです。壱与姫・・・もはやあなたは、汚れてなどいません」

 壱与はじっと孔明の言葉を聞いていた。

穏やかな孔明の声が心の底まで染みとおり・・・それまで無彩色だった周りの世界が次第に色づいてゆくのを、壱与は確かに感じていた。

「姫・・・?」

 壱与の頬をいつしか静かな涙が伝っていた。それは決して悲しみの涙ではなく、一しずくごとに自分が癒され、再生してゆくために必要な儀式であった。

 孔明は何も言わず、まだわずかに長江の水を含んでいる壱与の黒髪をそっと撫でながら、その涙が止まるまで腕の中の小さな体を、抱き締め続けた。


「・・・まもなく夏口かこうに着きます。しばらくあなたを、私の友人の医師、呉普ごふのところに預けます」

 壱与の涙と体のふるえが完全に止まるのを待って、孔明が口を開いた。

「あなたは何よりまず、その傷を癒さなくてはなりません。今度の勝利でわが殿、玄徳様は孫権そんけんから約束どおり荊州けいしゅうの一部を譲り受けます。そうすればさらに南部の郡は、戦わずして殿に投降することは確実・・・暖かい土地を手に入れたら、あなたにはそこで静養してもらいます。そしてゆっくりと、今後のことを考えて下さい」

 このとき既に壱与の心は決まっていた。巫女の力が失われていないのなら、孔明の言うとおり劉備玄徳りゅうびげんとくに仕え、徳の高いと聞く劉備が国をおこすための一助となり、多くの民が殺されてゆく戦の世を終わらせたい。それはきっと平和を愛した両親をはじめ、一族への供養にもなるであろう・・・壱与の鳶色とびいろの瞳が生気と意志を取り戻した。壱与の運命はこのとき新たな道へと向かい、流れ始めたのだった。


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