第7章 崩御 1
帝位についた劉備はさっそく重臣を集めて軍議を催し、曹丕を討つ前に、やはりまず関羽を殺した孫権を攻めると宣言した。
義弟の張飛は大賛成したが、即座に趙雲が異議を唱えた。国賊は曹丕であって孫権ではない。先帝を殺した曹丕を討つのは当然としても、魏(ぎ:曹丕の国)ではなく江東(こうとう:孫権の領地)を攻めるのでは大義名分が立たない。張飛以外の重臣らは趙雲と同意見で、今はその時期ではないと、江東に出陣しようとする劉備をこぞって諌めたが、関羽を失った劉備の心にはもはや届かないのだった。
「陛下。国賊に対する恨みこそが公のものであり、兄弟の仇は私ごとでございます。帝位にある身としては、どうか天下のことを重んじられますように」
丞相の孔明も必死に諌言したが、義兄弟への義に厚い劉備の心には、かなうべくもなかった。
惠姫は内官令(ないかんれい:国の最高位の女官)として、いつものように皇帝劉備の後ろに控えていた。劉備と孔明、趙雲らと、どちらの言うことも惠姫には十二分にわかっていた。劉備を徳の人たらしめているのはこの義を重んじる心であり、そのために多くの有能な家臣たちが劉備に付き従ってきたのだ。だが今は、孔明や趙雲たちの意見のほうが正論であることは、疑いもなく確かなことであった。
しかしそれでも惠姫は、誰がどんなに反対しても劉備が関羽のために出陣することを止められないのなら、もう何も言わず敬愛する父劉備の思うままにさせてやりたいと、本心では思っていた。
劉備と孔明らとの口論に胸は痛んだが、惠姫は黙してそのやりとりを見守っていた。
「丞相、今回ばかりはお前の言でも入れることはできぬ!」
ついにそう言うと劉備は玉座を降り、重臣たちを残したまま、張飛とともに大広間から退出していってしまった。
「陛下、お待ち下さい!」
「陛下・・・ああ・・・」
同じくとり残された惠姫も、劉備の去って行った方をただ目で追い、立ち尽くすほかなかった。
しかし重臣らは、次には惠姫の方に詰め寄ってきた。
「惠姫様からも、何とか陛下に奏上して下され!」
「公主(こうしゅ:皇女)様、お願いでございます!」
惠姫は困惑して思わず後ずさった。
「・・・私は、軍議に意見する立場では、ございません・・・」
だが重臣たちは口々に惠姫に懇願する。
「いいや、正論をお聞き入れ下さらない今、愛娘の公主様に情で訴えて頂くしか・・・」
「姫ならおわかりでございましょう。陛下のなさろうとしていることはこの時期では無謀としか言いようがない。何とぞ今一度陛下にお話し下さい。お願い致します!」
趙雲までもが惠姫に訴える。惠姫は今までは命の恩人である孔明と趙雲にはできる限り従い、尽くすつもりだった。だが今回だけはたとえその二人のためであっても、劉備に意見する気持ちには、どうしてもなれなかった。
惠姫は一歩前に出ると、重臣たちの前に座して両手をついた。
「私にはできません!皆様にできぬことを・・・私ごときにできる道理がございません。どうか、ご容赦下さい・・・」
惠姫が平伏したので、趙雲らは慌てて惠姫の手を上げさせようとした。
「姫、何もそのような・・・陛下が信頼し、御寵愛なされている姫の言なら、陛下も聞く耳を持って下さるはず。ですから・・・」
「公主様・・・陛下はご高齢。無理なご出陣はお命にかかわるやもしれません」
しかし惠姫は頭を下げたまま、首を横に振った。
「それでも・・・私にはできません。たとえ私が命をかけて諌言しても、父上の関の叔父上様への思いには、絶対にかないません。私にはできません、私は無力です。どうぞご容赦下さい・・・」
惠姫にここまで言われては重臣らも諦めざるを得ず、つぎつぎ退出していった。
惠姫は平伏したままでいた。体が小さく震えていた。
退出してゆく足音がようやく途切れたと思ったとき、惠姫を立ち上がらせようとする手があった。
『孔明様・・・!』
孔明が無言で惠姫の手を取り、立ち上がらせた。
惠姫は心底驚いた。劉備への説得を拒否したことで、孔明が不興に思うかもしれないと思っていたのに、自分に向けられている孔明の目は、決して非難の目ではなかった。
孔明のわずかな表情を読もうとしたその時、孔明の両手がそっと背にまわされ、惠姫は抱擁される形になった。
『姫・・・もういいのです・・・』
聞こえるか聞こえないかの、つぶやくような孔明の声がした。
そのとたん、張り詰めていた気持ちが緩み、惠姫の瞳から涙があふれた。劉備の意志をかなえてやりたいとは思っても、劉備の出陣が劉備自身の命運を・・・ひいては長年の念願かなってようやく建国し、帝国になったばかりのこの国の命運を脅かすのは間違いない。それなのに、もはや座して見ているしかなくなってしまった・・・。それはあまりにも辛すぎることだった。
惠姫は自分を抱擁している孔明の体もまた、かすかに震えているのに気が付いた。
『孔明様・・・』
孔明も静かに涙を流していた。顔が見えなくても惠姫にはそれがわかった。孔明も辛いのだ。誰よりも劉備を理解している孔明が、その気持ちをわからぬはずはない。だが丞相として国のためには、皇帝となった劉備を諌めなくてはならなかったのだ。そして今、劉備の出陣が劉備と国を脅かすと分かっていても、惠姫と同様、ただ見ているしかなくなってしまったのだから・・・。
惠姫も孔明の背にそっと手をまわした。
ほんの短い間であったが、このとき孔明と惠姫は初めて同等に、互いの心を預け合っていたのだった。
その数日後、劉備の出陣を前にして、さらに追い打ちをかける大事件が起こった。
何と張飛が、その不興をかって処罰されるところだった二人の部下に、寝首をかかれ暗殺されてしまったのだ。その部下二人は張飛の首をもって孫権に下っていった。
その知らせが成都城に伝えられた数刻後、惠姫は一人劉備の私房に呼ばれた。
「・・・私をお呼びでございますか、お父様・・・」
劉備は惠姫に向き合ったが、その目ははるか遠くを見ていた。二人の義弟を失ってしまった劉備の形相は、悲しみと怒りのあまり尋常ではなかった。
「惠姫」
「・・・はい」
「私はこれから直ちに孫権討伐のために、江東に向かう」
凍りついたような沈黙のあと、惠姫はやっとのことで言葉を発した。
「・・・どうあっても、行かれるので・・・ございますね・・・」
「もちろんだ、惠姫。私は皇帝であるより前に、何よりも義を忘れぬ人間でありたいのだ。もう我慢はならぬ。今度こそ何が何でも、姫の叔父でもある関羽と張飛の仇を、私はとらねばならないのだ。・・・今まで一度も私を諌めなかった姫なら、わかってくれるな」
惠姫の鳶色の瞳が、劉備を見上げた。
「わかっております・・・私も、お連れ下さいますね、お父様」
しかし劉備は首を横に振った。
「・・・惠姫・・・それはできない」
「なぜでございますか・・・?」
「私が国を離れるときそなたまでいっしょだと、この国の民政が危うくなるのだ。もう今までとは違う。この国は帝国なのだ。皇帝がいなくとも、決して政が疎かになることがあってはならぬ。姫は最高位の女官、内官令であり、また三慈院の運営の総責任者だ。私の留守をしっかり預かってくれ・・・頼む、惠姫」
「・・・はい、かしこまりました。お父様の・・・仰せのとおりに・・・」
劉備の命に返答しながら、ほとんど無意識のうちに、惠姫の両の瞳からひとしずくずつ涙がこぼれ落ちた。
『私はこの、誰よりも敬愛する大好きなお父様・・・玄徳様に、もう生きて会うことは、かなわないのかもしれない・・・』
巫女として常人より鋭い感覚を持つ惠姫には、いやでもわかってしまうことがある。自分の涙に気づき、慌てて惠姫は目頭を押さえた。
「泣くことはない・・・惠姫。案ずるな。私は必ず仇をとって帰ってくる」
「お父様・・・」
「劉禅と皇后と、幼い皇子たちを頼む。共に私の帰りを待っていておくれ」
劉備は最愛の娘を抱擁した。
最後になるであろう抱擁のぬくもりを決して忘れぬよう、惠姫は息をひそめて自分の五感すべてでそれを受け止め、心に刻み付けた。




