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第6章 暗雲 3

 それからしばらくして、関羽かんう軍が曹操そうそう軍の大将曹仁そうじんを破ったとの知らせが成都せいとに届いた。

「さすがは関羽将軍」

 劉備りゅうびをはじめ成都の諸将は喜んだ。しかし惠姫けいきはかすかに顔を曇らせた。夢占ゆめうらにははっきりと現れなかったが、不安な予感が続いていた。そしてその予感は、ゆっくりと現実になっていった。

 それからいくらもたたないうちに劉備は、曹操の援軍が到着したため関羽が苦戦しているとの報告を受けた。劉備はただちに兵を率いて関羽を助けに行こうとしたが、孔明こうめいがそれを止めた。要請もないのに援軍を送ることが、関羽の武将としての誇りを傷つけるのを思ってのことだった。

 戦は予想以上に長引き、季節は夏を過ぎ、秋を過ぎた。関羽は苦戦のし通しだったが、成都への援軍の要請は一度も出さなかった。そしてついに曹操軍の樊城はんじょうを包囲していた関羽軍は、曹操に呼応して江東こうとうから進攻してきた孫権そんけん軍に留守をつかれ、荊州けいしゅう城を奪われてしまった。仕方なく関羽は麦城ばくじょうという小城に籠城することとなった。その知らせは大分遅れて成都に届いた。

 季節はもう冬になっており、温暖な成都にも小雪がちらつき始めていた。劉備は直ちに関羽救出に出陣すべく、緊急の軍議を招集した。


『手遅れではないだろうか・・・』

 惠姫は不安でならなかった。

しかし関平かんぺいに渡した竟子きょうしがまだ反応しないのがせめてもだった。竟子は実はついになっている二つの鏡で、持ち主の身に大きな危険が迫ると、もう一つを持っている惠姫は、それを知ることができるのだった。

 軍議では劉備と孔明が、次々と将軍たちに出陣における役職を割り振っていった。最後に劉備が、後ろの惠姫を振り返った。

「惠姫」

「はい」

「今度もそなたを救陣副校尉きゅうじんふくこういに任ずる。頼むぞ」

「はい、お父様」

 軍議のときは内官令(ないかんれい:国の最高位の女官)の惠姫は、いつも侍女として王座の劉備の後ろに控えていたが、救陣副校尉に任じられれば内官令でも王女でもなく、文官の末席に下がることにしていた。

 下座に向かって一歩踏み出したその時、惠姫は不意に胸元に大きな衝撃を感じ、その場に膝をついて倒れた。臨席の諸将がざわめき立った。

「惠姫!」

 すぐに劉備が駆け寄って助け起こした。

「惠姫!どうした!」

『竟子が、反応してしまった・・・!』

 惠姫は顔から血の気が引いて行くのを感じた。劉備に気づかれないよう平静を保とうとしたが、体が震えるのを止められない。胸元の衝撃は、ゆっくりと痛みになっていった。

「あ・・・!」

 劉備が悲鳴のような短い声を発した。惠姫を抱きかかえるかっこうになっていた劉備の手のひらに血がついており、惠姫の服の胸元が鮮血に染まっていた。懐に入れておいた竟子が割れ、惠姫を傷つけていたのだった。

呉普ごふ!」

 救陣校尉きゅうじんこういに任じられ文官の末席の方にいた呉普を呼び、劉備は惠姫を託した。惠姫は痛みをこらえながら、言葉を発した。

「・・・お父様。軍議中に、申し訳ありません。・・・ふところの鏡が割れただけです。大したことは・・・ございません・・・」

「鏡・・・?しかしとにかく怪我をしているのだ、退出して手当をしてきなさい。軍議が終わったら私もすぐに行く」


 間もなく軍議を終えた劉備が、惠姫を私房に見舞っていた。呉普の手当を終え、惠姫は馮几(ひょうき:座椅子)にもたれて座っていた。

「大丈夫なのか、惠姫。寝ていなくてもよいのか」

「お父様・・・軍議を中座して、本当に失礼を致しました。傷は大したことはございません。十分手当をしていただきましたので、もう大丈夫です」

 口調はいつもの惠姫だったが、心なしか顔色がやや青ざめて見える。

「惠姫・・・鏡が割れたと言っていたが、本当にそれだけか?倒れたときのそなたの様子は尋常ではなかった。他に何かあったのではないのか?」

 劉備は心底惠姫を案じていた。その視線から目を伏せて、惠姫は答えた。

「・・・実は・・・あの鏡は、姉のたった一つの形見の品だったのです。それがおそらくもう古くなり・・・割れてしまったので、動揺してしまいました・・・」

「そうであったか・・・わかった惠姫。とにかくそなたが大事なくてよかった。出陣も迫っているゆえ、それまで養生するように。無理をしてはならぬぞ」

 劉備が去っていくと、惠姫は近くの侍女にそっと耳打ちをした。


 しばらくして夜も更けてきた頃、人目を忍んで孔明が惠姫の元に呼ばれていた。

「惠姫様・・・いかがなされましたか」

「孔明様、お呼びだてして申し訳ありません・・・」

「いいえ。予想はしていました・・・。姫があのように動揺されるのは、ただごとではないと思っておりました。・・・何があったのです。鏡というのは、本当は何だったのですか」

 劉備はごまかせても、やはり孔明の目はごまかせなかった。惠姫は震える声で、孔明を見上げて言った。

「あれは・・・竟子だったのです・・・」

「竟子・・・」

 孔明は巫女の持つ竟子のことを知っていた。

「もう一つは、一体誰が・・・?」

 一瞬の間があった。

「・・・荊州の・・・関平様です」

「何と・・・それは・・・!」

 孔明は思わず声を荒げた。それが割れたということは・・・。

「・・・孔明様・・・星を、読んでいただけますか」

 孔明は惠姫を支えて部屋を出、外に面した廊下から天を仰いだ。雪雲が切れて、鮮やかに冬の星座が広がっていた。

「関羽様たちの・・・星は・・・?」

 孔明はしばらく星々を見ていたがやがて深く嘆息し、ゆっくりと首を横に振った。惠姫は顔を覆った。体の震えが止められない。二人とも無言だった。

 やがて惠姫を部屋に連れて戻ると、ようやく孔明が口を開いた。

「・・・数日のうちに、伝令が訃報を知らせてくるでしょう・・・。次のことを、考えねばなりません・・・」

 惠姫はうなずいてみせた。

「・・・姫。お辛いでしょうが・・・気落ちし過ぎませんように・・・」

 孔明は惠姫と関平が竟子を分け持っていたので、二人が想い合っていたと思ったのだった。

 惠姫を一度軽く抱擁すると、孔明は惠姫の私房を辞した。


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