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第6章 暗雲 2

 魏王宮ぎおうきゅうで、劉備りゅうび漢中王かんちゅうおうになったとの知らせを聞いた曹操そうそうは激怒した。曹操は知将、司馬懿しばいの進言を受け入れて孫権そんけんに親書を送り、同盟を結んで関羽かんうの守る荊州けいしゅうを攻めようとしていた。このことを知った劉備はただちに孔明と対策を練り、先手を打つために関羽に出陣の命を下すことを決めた。関羽のところへは息子の関平かんぺいを伝令として遣わし、父とともに出陣することとなった。


 関平がいよいよ荊州に向けて出発するという、前の晩のことだった。

 惠姫けいきは私房に戻ろうとして、城の後宮に向かう庭に面した渡殿わたどのを歩いていた。惠姫は新しく完成した宮殿の後宮、西のたいに住んでいた。東の対は、劉備が最近娶めとった新しい王妃、呉夫人ごふじんが入っていた。

 惠姫は庭で木の葉ずれの音を聞いた気がして、ふと立ち止まった。

『誰かいるのかしら・・・この後宮にはめったな人は、近づけないはずだけれども・・・』

「どなたか、いらっしゃるのですか」

 声をかけてみると、木立の間から人影が近づいてきた。それは関平だった。

「関平様、どうなさったのです。・・・明日は御出立というのにこのような時間に・・・」

 何か思い詰めたような表情の関平が、おもむろにひざまづき、拱手きょうしゅして言った。

「・・・忍んで来た失礼をお許しください。姫にどうしても・・・お話ししておきたいことがあるのです。庭に降りて来ては下さいませんか」

 惠姫は関平の手に引かれて、ゆっくりと庭へのきざはしを降りた。ひさしかげから出ると、中秋の弓張月ゆみはりづきが惠姫を照らし、薄暗い庭の中にその清麗な姿を浮かび上がらせた。

『月の光が人の姿になるとしたら、やはりこの姫のように・・・』

 ことに今宵は惠姫がまぶしく感じられ、関平はいとおしさに目もくらみそうな心地だった。


「お話しとは何でしょう、関平様?」

「惠姫様・・・」

 一度言葉を切って、関平が惠姫の瞳をまっすぐに見つめた。

「私は・・・あなたが好きです・・・姫」

 それはあまりに突然の告白だった。惠姫は驚きを隠せなかった。

「関平様・・・?」

「姫は、関平がお嫌いですか」

「お待ち下さい、関平様。私が巫女みこであることは十分御承知ではありませんか。おたわむれは・・・」

「戯れなどではありません、姫!姫が巫女であられることはもちろん承知しております。でも私は・・・私はあなたを、本当に愛しているのです」

 関平は月の光を映して、潤んだように見えるまなざしで訴えた。

「姫が荊州城にいらしたときからずっと・・・私は姫のことが好きでした。誰の妻にもならないあなたの親衛隊長に指名され、誰よりもそば近くにいられて、どんなに嬉しかったか・・・。姫はただ清らかで美しいだけでなく、聡明であられ・・・またお父上玄徳げんとく様や領民、兵たちのためとあらば人柱になることも、戦場に立つこともいとわないほど勇敢で・・・そのお姿はまさに神女しんにょそのものでした。・・・かなわぬ想いとは分かっています。それでも私は姫を・・・あなたを愛してしまったのです!」

 今まで関平の気持ちに、全く気づいていなかったといえばうそになる。しかしこんな唐突に、はっきりと想いをぶつけられたことに、惠姫は狼狽し困惑していた。

「そんな・・・関平様。私は関平様が思っているような姫では・・・」

 だがなおも関平は言い募る。

「私が・・・お嫌いですか?」

「いいえ。関平様は従兄ですし、今までずっと親衛隊長として私を守ってきて下さいました。でも・・・関平様がおっしゃるような意味で、考えたことは・・・」

「お嫌いなわけでは、ないのですね」

「はい、それは・・・」

 瞬間、関平の息がすぐそばにきて、惠姫はたくましい腕に抱きすくめられた。

「関平様・・・どうかお離し下さい・・・」

「お願いです。私を嫌いでないのでしたら、今だけ、今だけこうしていて下さい・・・」

 惠姫は抵抗するのをやめて、関平に抱かれるままになった。関平はいよいよ強く惠姫を抱き締め、その背に流れる黒髪を愛撫した。

「・・・あ・・・」

 かすかに惠姫がうめいた。関平が強すぎた腕の力を少し緩めた。


「・・・なぜ」

 つぶやくように惠姫が言った。

『なぜ、今・・・?』

「今でなくては、手遅れになりそうな気がして・・・」

「それは、どういうことですか・・・?」

「なぜだか・・・もうあなたに、会えぬような気がするのです・・・」

 惠姫は本当に驚いて関平を見上げた。口を開こうとしたが、それは言葉になる前に止められた。

「姫、お許しを・・・」

 関平は惠姫の唇に、自分の唇を素早く重ねた。想いのすべてをこめた、熱い口づけだった。

 しばらくの後やっと惠姫を離した関平は、惠姫の瞳がわずかに潤みはじめているのを見た。

「お許し下さい・・・」

 もう一度そう言うと、関平は身をひるがえし立ち去って行った。

惠姫は体の支柱でも抜けたかのように、そこに座り込んでしまった。去ってゆく関平の背を見送りながら、惠姫は思った。

『もう、会えぬような気がするのです・・・』

 そう言ったその背が、ひどくはかなく見えた。

『気のせいだ・・・』

 そう思おうとするのだが、関平の今回の出陣に対して、不安の念が少しずつ心の中に増してきていた。

唇が、痛いくらいに熱かった。惠姫には、その痛みがなぜか永別の悲しみに似ているように、どうしても思えてならなかった。


 次の日、惠姫は侍女を通して、小さな包みと手紙を関平に渡した。それは姉から受け継いだ『竟子きょうし』という手鏡だった。

『関平様のお気持ちに応えることのできない私を、それでも想っていて下さるのなら、これを私の身代わりと思ってお持ちください 惠姫』

 関平はその手紙と竟子を大切にふところに収め、父関羽のいる荊州へと向かって行った。


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