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第6章 暗雲 1

 成都せいとに戻った惠姫けいきは、久しぶりに兄劉封りゅうほうの屋敷を訪ねていた。

劉封は数年前に妻をめとり、城を離れて城下の屋敷に住んでいた。

 惠姫は荊州けいしゅうにいたころから劉封が好きだった。劉封も実の両親を亡くして劉備りゅうびの養子になったのであり、両親と一族を亡くした惠姫のことを誰よりも理解し、かわいがってくれた。劉備や孔明こうめいがどんなに優しくしてくれても、惠姫にとってはあくまでも忠節を尽くすべき恩人であった。それほど歳も離れていない、兄となった劉封だけが本当に心くつろいで、軽口を言い合うこともできていた相手だったのだ。

 だが漢中かんちゅうから戻って以来、父劉備が漢中王となり自身も王子になったというのに城に参内さんだいもせず、誰もその姿を見かけていなかった。巷には、劉封は人を避けて屋敷に籠もり、荒れて酒浸りであるという噂が流れていた。

その理由は、惠姫には察しがついていた。


「兄上・・・」

 噂どおり、昼間だと言うのに劉封の私房は酒瓶が散乱し、えた匂いでむせ返るようであった。主人の不興をかうのを恐れて、使用人も夫人も近づくことができないという有り様だった。

 惠姫の声に、卓につっぷすようにして酒を飲んでいた劉封が空ろな目を上げ、呂律ろれつの回らない調子で言った。

「・・・何だ。麗しの・・・神女しんにょ将軍ではないか。何しに来た・・・」

 先の戦いで惠姫はますます神格化され、兵や領民たちから神女将軍や巫女みこ将軍と呼ばれるようになっていた。

「・・・兄上・・・」

「わかっておる。私を笑いに来たのであろう。・・・王子なのに父上に見捨てられ、成都に留まることを許されず、上庸じょうように左遷されるとな!」

 劉封は神経質そうに見えるやや細面の顔に、ひきつった笑いをうかべた。惠姫は努めて明るく話しかけた。

「そうではございません、兄上。上庸は魏(ぎ:曹操そうそうの領地)との国境で我が国の守りの重要な拠点でございます。父上が兄上を信頼しているからこそ、兄上にお任せになったのではありませんか」

「ふん、どうだか。建前はそうかもしれんが、ていのいい厄介払いであろう」

 劉備がまだ幼い実子の劉禅りゅうぜんを太子としたことは劉封も承知のことだったが、地方の守りに回されると決まったことが不満でならなかった。家臣の中には劉封が謀反を起こすと考えている者もおり、そのために中央から遠ざけられるという噂まであった。

「兄上。どうかそんなふうにおっしゃらないで下さいませ・・・」

 そのとたん劉封は持っていた酒瓶を投げて立ち上がり、惠姫を睨みつけた。その目は、今までずっと惠姫の優しい兄でいてくれた劉封とはとても思えない、憎悪の念さえ感じるような、冷たい目であった。

「おまえに何がわかる!神女将軍などと言われて、私よりはるかに人々の・・・父上の信頼と愛情を得ているおまえに、私の気持ちなどわかるものか!・・・ほら見ろ。やはり私を哀れみにきたのであろう」

「兄上、私はそんなつもりでは・・・。ただ兄上が気落ちされているとお聞きしましたので、私が何か・・・お慰めできないかと・・・」

「慰めにきただと・・・」

 酒に酔っている上に激高げきこうし、正気を失っている劉封の瞳が、意地悪く光った。

「それでは慰めてもらおう・・・その身でな!」

 劉封は惠姫に近づき有無を言わさず抱え上げると、隣室に連れて行き寝台の上に放り投げた。惠姫はあらがわず、声を立てることもしなかった。

劉封は惠姫に覆いかぶさると、酒臭い息を近づけた。

「・・・聞くところによれば、巫女は凌辱されるとその力が無くなるとか・・・。おまえが信頼され、愛されているその力が無くなれば・・・父上もそなたを見捨てるかもしれぬな。それに・・・知っているか。人のものにならぬおまえの肌に、どれだけの男が焦がれているか。それが今、私の腕の中にあるとは・・・」

 言うなり劉封の両の手が惠姫の衣装に掛かり、乱暴に胸元を開いた。白い肌があらわになった。惠姫は微動だにせず、ただ劉封の目をじっと見つめ、消え入りそうな声でつぶやいた。

「・・・やはり私は・・・長江から生き永らえてくるべきでは、ありませんでした・・・」


 劉封の動きが止まった。

「今何と言った。長江とは・・・かつて一族を殺されたおまえが江東から助け出されたとき、身投げしたとか聞いたな・・・」

「・・・私が身投げをしたのは、一族を殺されたからだけではありません。江東で捕らわれていたときに・・・凌辱を受け、巫女の力を失ったと思ったからです。なのに子龍しりゅう様と孔明様に助けられ・・・父上の養女になり、高い身分を与えられいい気になって・・・今までずっと私によくして下さった兄上を、傷つけてしまいました。やはり私はあのとき死ぬべきでした。兄上にどうされても・・・それは恩知らずな私への、天罰でございます・・・」

「おまえが凌辱されただと・・・。そんなことは聞いたことがない。どういうことだ」

「・・・そのことを知っているのは、孔明様ただ一人ですから・・・」

「誰に凌辱されたのだ。・・・江東の、名も知れぬ男か」

 惠姫は劉封を見つめていた目を伏せた。

「・・・その時大都督だいととくだった・・・周瑜しゅうゆ将軍です。私は江東の捕虜だった時、彼の囲われ者にされていたのです・・・」

「何だって・・・!」

 初めて知るあまりのことに、劉封は絶句した。

「・・・私は人に思われているほど、清らかでも、たいした姫でもないのです。凌辱を受け、死に損ない・・・生き恥さらしの身であるのに、そのことを忘れて思い上がっておりました・・・。父上の優しさに甘えて、兄上を不幸にした許されない女です。どうぞ・・・お気の済むようになさって下さい・・・」


 しばらく沈黙が続き、ようやく劉封が口を開いた。

「・・・知らなかった、おまえはそんな目に合ってきたのか。それなのになぜ、おまえはいつも穏やかで、笑みを絶やさずにいられるのだ」

「・・・長江からよみがえったあと、運命にあらがうのをやめて、運命を受け入れて生きようと決めたからです。失ったものを数えて嘆くのではなく、得たもののほうを数えて生きて行こうと・・・。幸いにも、そのときはなぜか巫女の力は失われませんでしたし、不幸だと思われることも自分がそれを乗り越え、魂を成長させてゆくための意味があり・・・考えてみれば世間知らずだった私も、それで戦世いくさよの人々の苦しみがわかるようになりました。それに一族を失うようなことがなければ、ここの方々に・・・父上や兄上に出会うことも、巫女として強い力を授かり、このように人の役に立てることも、なかったかもしれません。・・・初めはなかなかそう思えず辛かったですが、いつしかそう思うことで救われている自分に気づき、穏やかな気持ちでいられるようになりました」

 じっと聞いていた劉封は、惠姫を寝台から起こすと、衣装を直してやった。

「・・・すまなかった、惠姫。私は自分が恥ずかしくなった。惠姫・・・私もおまえのようになりたい。私にもその心の強さを、分け与えてくれ・・・」

「私が強いわけではございません。ただ、決めればいいのです。運命を受け入れ、自分が得たもののほうだけを、数えると・・・。でもすぐにそうできて、穏やかな心持ちになれるというものでもありません。しばらくは辛い時期があると思います。私はずっと兄上のために、祈り続けることにします。兄上が、あまりお辛くないように・・・」

「・・・ありがとう惠姫。おまえといると、心がいでいく気がする。なあ惠姫・・・もし私が生まれ変われるとしたら、今度は戦世でなく平和な時に生まれて、公子こうしなどにもならず、普通に穏やかな人生を、生きてみたいものだ・・・」

 惠姫はいつもの優しい兄に戻った劉封を見て、心から嬉しそうにほほ笑んだ。

「それは私も同じです。今度は平和な世に生まれて、普通の女子として、生きてみとうございます」

「惠姫、その時兄妹でなければ・・・私と一緒にならぬか」

「はい、兄上。きっとですよ」

 二人は顔を見合わせて笑いあった。それは惠姫と劉封が、最後に共に過ごした時となった。


 劉封の屋敷の門を出たところで、惠姫は言った。

馬謖ばしょく様。そこにいらっしゃるのは、わかっております」

 成都城から惠姫をつけてきて、劉封の屋敷の庭にずっと隠れていた馬謖が、きまり悪そうに背後から現れた。

「惠姫様・・・。私はその・・・」

「わかっております。・・・孔明様に言われて、私をつけていらしたのでしょう」

「あの・・・そうです。孔明様は、劉封様のところにお一人で向かわれた姫を心配して・・・」

 馬謖に皆まで言わせず、惠姫は穏やかに言った。

「いいのです。責めているわけではありません。・・・孔明様にお伝え下さい、私は無事ですと。それから・・・」

 声を落として惠姫は続けた。

「劉封様は・・・謀反を起こしたりはなさいませんと。確かに、伝えて下さい」

 惠姫にはわかっていた。孔明が心配しているのは、正確には惠姫の身のことだけではなく、何より劉封の謀反の疑いのことだと。

『私は玄徳げんとく様の・・・そして孔明様の国作りの道具・・・。それがわたしの運命・・・』

 惠姫は自らに言い聞かせるように、そっとつぶやいた。

 それから間もなく、劉封は上庸へ旅立って行った。


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