第5章 神女 3
益州にはしばらく戦のない平和な日々が続いていた。
曹操が漢中の張魯を破り益州の劉備に危機がせまったが、孔明は荊州の一部を孫権に返して、替わりに曹操の領土を攻めさせた。この策が的中し孫権軍と曹操軍の戦いは長期戦となり、その間劉備は益州の内政を充実させることができたのだった。だがこの平和もいつまでもは続かなかった。兵数の差で不利な孫権軍はしだいに曹操軍に追い詰められ、ついに降伏して、孫権と曹操は和議を結んでしまった。そしてその後当然曹操は益州攻略に乗り出した。
劉備はこれを迎え撃つため軍を率い、漢中の手前陽平関に向けて孔明、張飛、趙雲らと出陣した。惠姫も再び救陣副校尉として加えられた。劉備は先の益州攻略の時のこともあり、最初は惠姫の従軍を渋っていた。しかし益州に来てから惠姫の巫女星は今までになく輝きを増しており、それに気づいていた孔明が口添えをしたので許されたのだった。
劉備軍は最初の戦いで曹操軍の曹洪将軍に敗れたが、その後大将軍、夏候淵を討ち取り優勢となった。そこで曹操軍はついに曹操自ら出兵し、定軍山にて劉備軍と向かい合うこととなった。
曹操が出兵してくると、曹操軍はそれまでと打って変わった勢いで総攻撃をかけてきた。優勢だったはずの劉備軍は曹操との最初の戦いで予期せぬほど多数の死傷者を出し、緊急の作戦会議を余儀なくされた。
本陣でのその会議の最中、従者が劉備に伝えた。
「救陣副校尉惠姫様が、至急の目通りを願い出てこちらにお越しでございます」
劉備が答える前に、もと劉璋の部下でその才を買われ、今回の出陣で孔明と並ぶ軍師として加わっていた法正が言った。
「いくら公女であられても、今は重要な軍議の最中だ。女子や救陣副校尉の出る幕ではない。後にしていただこう」
「法正。そなたは私のところに来てまだ日が浅いのでわからないだろうが、惠姫は龐統に男であれば軍師にしたいと言わせたくらい聡明だが、未だかつて出過ぎたまねをしたことのないわきまえた姫だ。その惠姫が軍議中と知りながら来たのはよほどのことであろう。目通りを許そう」
すぐに惠姫が通された。
「皆様、軍議中に申し訳ございません。お父様、失礼は承知で申し上げます。今回だけ私に軍議への発言を、お許し頂けないでしょうか」
「惠姫、それはわが軍の大事にかかわることだな」
「はい。その通りでございます」
「惠姫の発言を許してよいか、軍師孔明、法正」
「もちろんでございます」
孔明がうなずいたので、法正も渋々同意した。
「ありがとうございます。私の意見を申し上げる前に、先日の先鋒をなさった趙雲将軍と黄忠将軍にお尋ねしたいことがございます。お二人は、今回の曹操軍の勢いをいかが思われましたでしょうか」
すぐに孔明が答えた。
「姫、今もそのことを話していたところです。曹操自ら指揮しているとは言え、今回の敵軍の勢いは一種異様なほどです」
趙雲も黄忠も同意した。
「私は救陣で兵たちの傷を見ておりますが、今回負傷した方々の傷は一様に深手で、それはひどいものでございました・・・。兵たちが言うには敵兵が今までになく接近して、切りかかってきたとのことでした」
じれたように法正が口を挟んだ。
「それがどうしたとおっしゃる。曹操がそのように指示しただけのことでござろう」
「法正様。お言葉を返すようで申し訳ございませんが・・・指示されたからと言って将軍ならともかく一兵卒に至るまで、皆が皆従えるものではないと思います」
趙雲が言った。
「確かに、思い返せば普通接近戦はよほど腕に覚えがなければ自らを守れないので、やたらの兵にはできない。なのに今回は接近戦を挑む敵が多く、命知らずがやけに増えたと思っておりました」
「・・・それは恐らく曹操軍の兵士全員に、自らが切り返されることを恐れなくなるような、集団催眠がかけられているからだと思われます」
惠姫の言に列席の諸将が、呻くようにどよめいた。
ふと法正が言った。
「そういえば曹操が近ごろ、妖術使いを厚遇しているという、噂がございましたな・・・」
「妖術などというまやかしものではなく、れっきとした催眠術です。ただあのような大軍にかけることができるのは、よほどの使い手です。このままでは、わが軍にあまりにも不利でございます」
事実曹操は左慈という男を今回の戦に同行していた。自らを妖術使いとして売り込んだのだが、その実は催眠術師であった。惠姫の言うとおり左慈は曹操軍の兵たちに、自らの命を顧みず戦うよう、催眠術をかけていたのだった。
劉備が問うた。
「惠姫、何か策があるのか」
「はい。これから三晩、私が曹操軍に向けて催眠術を解くために歌を歌います。定軍山のふもとに立ち、夜の静寂と山の反響を利用すれば、曹操軍に十分届くと思われます。その後最後の四日目は昼に歌いますので、そのとき総攻撃をかけて下さい。敵軍の兵たちの催眠術が解け、さらにうまくゆけば彼らが戦意を失い投降してくることで、これ以上無益な血を流さず、勝利することができると思われます」
「わかった惠姫。ではさっそく親衛隊の総員に歌の間姫を囲んで守るよう命じ、万一矢で射かけられたときのために、至急姫に合う鎧を作らせよう」
惠姫は嘆息した。
「お父様、それは両方ともだめでございます。これは祈祷と同じなので、まわりに大勢人がいてはできません。それに私の体に鎧を着けられては声が十分出せず、敵兵の催眠術を解くように歌うことができません」
劉備はみるみる顔色を変えた。
「冗談ではない!丸腰のそなたを一人で敵前に出せというのか。そのようなことは許可できない。殺されにいくようなものではないか!」
「ほかに彼らの催眠術を解く方法はございません。このままでは彼らは恐れを知らず、全員が死ぬまで挑んできます。これ以上わが軍の兵がそのような卑劣なやり方で傷つけられてゆくのを、座して見ていることなどできません。また操られている曹操軍の兵たちにも、無益な血をこれ以上流してほしくないのです。お父様、どうか私にお命じ下さい!」
「・・・惠姫、しかし・・・」
惠姫を溺愛する劉備は、困り果ててしまった。
「お父様・・・私は十年前曹操に一族を殺されて以来、一日たりともその恨みを忘れたことはございません!戦にて仇討ちすることのかなわぬ、女子である我が身を・・・どれほど口惜しく思ったことか・・・。でも今なら、私でもお役に立てます。何とぞ私に、敵前に出ることをお許しください!お願いでございます、お父様・・・!」
こんなに激しい物言いをする惠姫を、今まで劉備も誰も見たことがなかった。感情が高じて涙しそうになるのを、引き結んだ唇を震わせこらえているその姿は、諸将の同情を集めるに十分だった。さすがの劉備も、心を動かされた。
「・・・よくわかった、惠姫。だが、どうしたものか・・・孔明、法正。何か姫を守る方法はないものか・・・」
わずかな間の後、孔明が惠姫に向かって言った。
「・・・姫。わが軍のためにも、やはり姫には万一のことがあっては困るのです。夜の三日間、護衛が一人ならいかがでしょう。姫を守り切れるように、将軍格の者をつけます。それから昼間の総攻撃の時はどうしても親衛隊を全員つけていただきます。その範囲で出来る限り敵軍の催眠術を解いていただき、あとは我々が作戦を考えます。殿、それでいかがでしょう」
「・・・そうだな惠姫、そうしよう。夜の護衛は一日ずつ趙雲、劉封、黄忠に申し付ける。もし敵の矢が惠姫に向かうことあれば必ず惠姫を守り、無事本陣に連れて戻るように」




