第5章 神女 2
劉備は、劉璋が益州を治めていたころの制度や風習の中で、良いものは大切にして領民の心をつかんでいたが、都江堰の人柱だけは悪習だとしてやめさせていた。
都江堰とは、五百年程前の春秋戦国時代に作られた水利施設で、成都の北六十キロで岷水(びんすい:南で大渡江と合流し、長江につながる川)の流れを外江と内江の二つに分け、それによって水量を調節し、水害を防ぎつつ益州の平野を肥沃にしている治水の要所であった。 今まではその氾濫をもたらすと言われる水龍に、人柱を捧げる風習があったのを劉備がやめさせ、最初に惠姫に大掛かりな祈祷の儀式を執り行わせて、普段は孔明の指揮のもとで千人の兵士に守らせていた。
そんな状況の中、劉備が治めるようになってまだ幾らも経たぬ頃、いつにない大雨が降り都江堰氾濫の危機が迫ったことがあった。
成都はもともと霧と雨の多い所であったが、とりわけその年の成都城は、幾日も続く地雨に降りこめられていた。まだ気候に不慣れな劉備の陣営の者たちは、湿度のため重さを増して感じられる衣や髪に、心まで重くなったように鬱々としていた。
いつ止むともわからぬ小雨の曇天を、ある日城の高楼から劉備と惠姫が並んで眺めていた。
「本当にここは雨が多いな、惠姫」
「・・・はい、お父様・・・」
おや、と劉備は惠姫を見た。いつもなら『雨は天からの恵みです』と、長雨に浮かぬ様子の劉備を晴れやかな笑顔で慰めてくれる惠姫が、今日はわずかながら眉をひそめて空を見上げていた。
「どうした惠姫?いつものそなたらしくないな」
「はい・・・あの、こんなに雨が続くと・・・都江堰が心配なのです」
「そのことなら大丈夫だ。先程孔明が同じことを言って、自ら都江堰に向かったところだ」
惠姫はそれを聞いて安堵した。孔明がいるなら心配することはないだろう。しかし雨はその夜からさらに激しさを増してきたのだった。
雨音に眠りを乱され、惠姫は苦しい夢を見ていた。
城の中であるにもかかわらず、寝台の惠姫の上に雨が降っており、しかもなぜか体の自由が効かない。雨水は瞬く間に部屋を満たし始め、必死にあらがおうとするのも空しく、動けない惠姫の体が次第に水に浸かってゆく・・・。
悪夢を無理やり振り切って、惠姫は飛び起きた。
『この夢は・・・おそらく都江堰の氾濫を意味している・・・』
息を整えながら、惠姫は急いで夢占をした。
『都江堰が氾濫したら、広い地域で作物がやられてしまう・・・。それに人柱の風習をやめた玄徳様が、そのことで領民から恨みをかうようなことになってしまったら・・・』
行かねばならないと惠姫は思った。自らが水に浸かる夢は、水龍が自分を望んでいるからに違いない。
惠姫は関平を呼び親衛隊の総員に招集をかけ、夜が明けるやいなや激しい雨の中を、密かに都江堰へと向かった。
「孔明様!」
雨の中、夜を徹して都江堰の堤防強化工事の指揮をしていた孔明は、突然現れた惠姫と親衛隊に驚きを隠せなかった。
「どうしてこのようなところに・・・!姫、殿の承知のことでございますか!」
全速力で馬を飛ばして来た惠姫は、雨に濡れたまま肩で大きく息をしながら首を横に振った。
「姫!何ということを・・・。関平!なぜ姫をお連れした!」
孔明は後ろの関平に言ったが、関平が口を開く前に惠姫が遮った。
「関平様、親衛隊全員を直ちに堤防工事に向かわせて下さい!」
「姫・・・」
言い淀む関平に、惠姫がたたみかけた。
「命令です!早く!」
命を受けた関平が立ち去ると、工事のため急ごしらえされた小屋には、惠姫と孔明の二人きりとなった。
「姫、雨の中をこのような危ない所に・・・殿に知れたらどんなに心配なさるか」
「都江堰の氾濫の予知夢を見たのです。私には祈祷の責任があります」
とがめるような孔明の目を、惠姫は真っすぐに見返した。
「祈祷のために・・・来たとおっしゃるのですか」
「そうです。できるだけ水面に近い所へ降りて、今からすぐ水龍に祈祷を捧げます。何としても氾濫を防いで、人柱をやめた玄徳様への、領民の信頼を守らなくては・・・」
「お考えはわかりましたが、水面に降りるのはおやめ下さい。今は大変に危険です。一歩間違えば、姫が流されるかも知れません」
「それは・・・自分で気をつけます。私のことより、今何よりも大切なのは、玄徳様の名誉をお守りすることです。孔明様も、そのことは十分ご承知のはず・・・」
「姫・・・」
少しの迷いも恐れもなく、潔いほどにきっぱりと言い放つ惠姫を見ていた孔明には、その真意がわかってきてしまっていた。
『姫は・・・おそらく自分を、水龍に捧げるつもりだ・・・』
劉備が愛娘を犠牲にしたとなれば、もし都江堰が氾濫してしまっても、領民の怒りを鎮めることができるだろう。惠姫はそこまで考えてここに来たに違いない。しかし孔明がそれを言って止めようとしても、惠姫はあくまで祈祷だけだと言い張るだろう。
「わかりました、姫。それでは祈祷をお願い致します。ただし・・・必ず命綱を付けて下さいますように」
「それは・・・」
惠姫は口ごもってしまった。
「命綱を、必ずお付け下さい!」
厳しい口調で言う孔明の目を、一瞬惠姫は見上げて、すぐに目を伏せた。
「・・・はい。孔明様のおっしゃる通りに致します・・・」
一礼して、惠姫は祈祷に向かった。
『命綱を・・・切るつもりであろうな・・・』
孔明は関平を呼んで惠姫に命綱を付けるよう命じ、さらに耳打ちした。
「姫は・・・祈祷が成就しなければ、自らを人柱の替わりになさるかもしれぬ」
関平は青ざめた。
「何ですって・・・そのようなこと・・・!」
「姫が綱を切ろうとするそぶりがあったら、関平!必ず素早く綱を引いて、姫をお助けするように」
「はい!・・・必ず!」
綱を腰に結わえて内江の堤防から水面近くまで降り、惠姫は刺すように降る雨と、足元にうねりを増し地を揺らすほど轟く川の水を浴びて、ずぶ濡れになりながら祈祷をした。
しかし、雨の勢いは変わらない。
『・・・天よ。水龍に私の身を捧げますから・・・どうか、大恩ある玄徳様のために、そして領民たちのために・・・何とぞ、何とぞ都江堰の氾濫を止めて下さい・・・』
今一度祈りを捧げると、懐の護身用の小刀を取り出し、惠姫は命綱を切り落とそうとした。孔明に言われていた関平が、すぐそれに気づいた。
「なりません!姫っ!」
関平は必死で綱を引いた。惠姫は引き上げられる前に綱を切ろうとしたが、関平の方がわずかの差で惠姫の身を堤防の上に引き上げた。
「離して!離して下さい!」
惠姫はあくまで我が身を都江堰に投じようとして、抱き止める関平の腕の中で激しく身をよじった。だが関平も断じて惠姫を離さなかった。
「なりません!姫!なりません!」
ずぶ濡れの二人が揉み合っている所に、突然劉備の声が聞こえた。
「もういい!やめるんだ、惠姫!」
声に驚いて振り向いた惠姫と関平の後ろに、いつの間にか成都にいるはずの劉備が立っていた。劉備も二人に負けず雨でずぶ濡れだった。惠姫と親衛隊が密かに都江堰に向かったのに気づいた劉備は、惠姫を案じて馬を飛ばして来たのだった。
「惠姫・・・。そなたが何をしようとここに来たのか、わかっている。しかし、もうやめるんだ。私のために、命を粗末にしてはならぬ!」
「でも、お父様!このままでは都江堰が・・・」
惠姫が叫びかけた時、劉備の後ろから孔明が駆けつけてきた。
「姫、ご覧ください。西の空から雨雲が切れてきました。大丈夫です。ここの雨も、まもなく止むと思われます」
惠姫は関平に抱き押さえられたまま、西の空を見上げた。確かに、空が早く流れていて、雨雲が切れてきていた。
『ああ、よかった・・・天よ・・・』
惠姫は安堵の余り全身の力が抜けていくのを感じ、関平の腕の中にそのまま倒れ込んでしまった。
「惠姫!」
劉備が関平から惠姫を受け取った。
「惠姫・・・!そなたという姫は・・・」
惠姫は呂律がまわりにくくなりながら、ようやくのことで言葉を発した。
「・・・お父様・・・私は・・・」
「何も言うな惠姫、何も言うな・・・。こんなに心配させて・・・そなたを叱りたいが、私や領民たちのためにしてくれたこと・・・それを思えば叱ることもできぬ。誰を咎めることもせぬ・・・そなたが喜びはしまいからな。だからもう、何も言うな・・・。そなたはまことの義の心を持った、世界一素晴らしい娘だ・・・」
劉備は疲れ切った惠姫を心底いとおしげに抱擁し、抱き上げて休ませに連れて行った。
都江堰の氾濫が防がれたことで劉備の娘、巫女の惠姫のことがたちまちのうちに益州の民にも知れ渡り、神女として崇められるようになった。
このときの劉備の領地、荊州と益州をつなぐ長江は水上交通がさかんになっていたが、そこに大峡という風向明媚な峡谷があった。そしてその河岸の美しい峰々のなかに、昔からよく知られた、佳人の立ち姿を思わせるひときわ美しい一峰があった。もともとは惠姫が劉備の出陣に伴い、長江を舟で上ったときに兵たちがうわさをしたのが初めであったが、その峰はいつしか巫女の惠姫の姿になぞらえて、人々から神女峰と呼ばれるようになっていった。




