第1章 再会 2
船は孔明の主君、劉備玄徳のいる夏口へ向かい、一路進んでいた。船室では孔明が、手ずから壱与の傷の手当をしていた。
『思ったより深くはない・・・よかった・・・』
孔明は気を失っている壱与の顔を見た。まだあどけなさの残る、少女の輪郭・・・しかし孔明の知っている、明朗な壱与姫とは今や別人のように、青白くやつれている。
『何があったというのだ・・・どうして孫権の陣営に・・・?』
孔明の記憶では、壱与はまだ十三のはずだった。壱与は孔明が劉備に仕える前、草庵を結んでいた襄陽の名家、崔家の二の姫で、孔明の朋友、崔州平の姪にあたる。父親は学者であり母親が巫女の血筋で、一の姫の莎英姫は名の知られた有能な巫女であった。
孔明は崔州平としばしば壱与の父親のもとを訪れ、ともに学問談義に花を咲かせたものだった。その名家の姫が、なぜ・・・?
孔明が手当を終え、そっと壱与のひたいに手を伸ばしたそのとき、固く閉じられていた瞳がふと開かれた。
「壱与姫・・・お気がつかれましたか」
その声に首はわずかに孔明の方を向いたが、壱与の瞳は芒洋として生気がない。
「私のために、申し訳ない・・・痛みますか?」
壱与は何も答えず、沈黙が続いた。やがて羽音のような、かすかな声を発したその口元に、孔明は耳を寄せた。
「どうして私を・・・お捨て置き下さらなかったのですか・・・」
「何を言われます!あなたは私の命の恩人であり、親友の姪です。そのようなことはできません」
「・・・孔明様を、お助けしようとしたわけではありません。私はただ死にたかったのです・・・あの飛び刀を受ければ死ねると思った・・・それだけです・・・」
孔明は壱与の冷たい手を取り、両手で包み込んだ。
「何があったのです・・・姫、私に話して下さい。なぜ姫は孫権のところに?・・・襄陽の御家族はどうなさったのですか」
孔明は少しずつ、壱与の話を聞き出した。
壱与の話はおよそつぎのようであった。
孔明が劉備に仕えるため襄陽を離れた一年後、劉備軍を追って襄陽を通過した曹操軍が略奪と殺戮をほしいままにして襄陽の町は破壊し尽くされ、多くの住民が殺された。もともと襄陽には裕福な名家が多く、崔家も曹操軍に襲われ財産を奪われ、あげくに壱与は両親を殺され、巫女の姉に連れられてようやくのことで逃げおおせた。姉妹は身寄りをなくしたので、姉の巫女仲間を頼り孫権の支配する江東へ落ち延びたが、その直後莎英姫は逃亡中の怪我がもとで、壱与に巫女の力全てを譲り亡くなってしまった。一人残され呆然自失の壱与は、嘆く間もなく孫権軍の大都督周瑜の巫女集めのために有無をいわさず拉致され、そして・・・
「それで姫はあの祭壇に・・・何ということだ・・・」
孔明は話を聞きながら、いつしか横たわる壱与の髪をなでていた。まだほんの少女なのに、何不自由ない裕福な名家の姫であった壱与の人生は、この一年足らずの間に大きく狂ってしまった。しかも伯父崔州平をはじめ、他の崔家の人々も莎英姫の占いでは誰ひとり生き残っていないという。壱与は天涯孤独となってしまったのだった。
「崔州平も・・・」
孔明はしばし手の動きを止め、無言となった。
そしてしばらくの後、再び孔明が壱与の手を取った。
「・・・姫。私がお仕えする主君、劉備玄徳様のことをご存じでしょう。玄徳様こそ必ずや漢王室を復興し、民が平和に暮らす理想の国を築くお方。私とともに来て、玄徳様にお仕えしませんか。姫は聡明であり、しかも莎英姫の力を受け継いだ、有能な巫女です。玄徳様は心の広いお方、きっと喜んで姫を迎えて下さいます」
しかし孔明がそう告げたとたん、なごみかけていた壱与の表情が硬直した。
「それは・・・できません・・・」
壱与の声が震えを帯びている。
「なぜです?急な話でしたが、ゆっくり考えて下さればいいのですよ」
だが壱与は、大きく首を横に振った。
「できません・・・私の力は・・・もう失われます・・・」
「それは、どういう・・・」
孔明が問い返そうとしたとき、船室の外から趙雲の声がした。
「申し上げます、軍師殿。後方、赤壁が炎に染まっております!」
「そうか・・・」
季節外れの東南の風にのせて、作戦どおり周瑜は火を放ったに違いない。燃えているのは風下の曹操軍の大船団だ。孫権・劉備の連合軍の大勝利であった。
孔明は壱与を残して船室から出ると、趙雲と並んで夕闇に燃えて輝く赤壁を顧みた。
「確かに風は東南・・・軍師殿、お見事でございます」
「なに、私が風を呼んだわけではない。数日だけ季節風の向きの変わるときがあるのを、漁師から聞いて知ったまでのことだ」
「そうだったのですか・・・それにしても汚し周瑜。どちらにしろ軍師殿を殺めるつもりだったとは・・・」
「わかっている。・・・彼には私が邪魔なのだ」
連合軍とは言っても、曹操に対抗するため一時的に結んだ軍事同盟である。もともとは敵どうしも同然であった。
突如、鈍い水音が聞こえた。孔明は趙雲と顔を見合わせた。
「何だ・・・?」
前方の船頭が叫んだ。
「誰か落ちたぞ!」
孔明ははっとした。
「しまった、姫だ・・・!」
その声に間発を入れず趙雲が江に飛び込んだ。
孔明はやっと分かった。壱与はなぜあのとき祭壇の上で、周瑜が自分を殺すつもりだと知っていたのか。大都督がただの巫女の小娘にそのようなことを言うはずがない。巫女の力は、処女を失うと衰えると言われている。どういうわけかはわからぬが、壱与は周瑜の囲われ者にされていたのだろう。そうであればすべて説明がつく。傷の手当ての時に気づいたが、あの祭壇で他の巫女が木綿の薄衣で震えていたのに、壱与だけが上質の練り絹の装束を身につけていた。そして趙雲の迎えの船に乗り込むとき、周瑜の叫ぶ声がしていた。何を言っているのかよくわからなかったが・・・思い返せば壱与と聞き取れなくもなかった。
孔明は天を仰ぎ、大きく嘆息した。
『何ということだ・・・』