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第4章 入蜀 4

 惠姫けいきがたくさんの包帯を外に干し終え、救陣きゅうじんの天幕に入ろうとしていた時、不意に思いもかけない声に呼び止められた。

「惠姫様。・・・お久しぶりでございます」

 孔明こうめいとの、約二年ぶりの再会だった。


 十八になっていた惠姫はもうあどけない感じはなくなり、面やつれしたせいもあってかすっかり大人びて見えた。

『孔明様・・・!』

 炎の中で幻にまで見た、尊い姿と・・・なつかしい声がそこにあった。それはかすかな痛みを伴って、惠姫の心の奥に、嬉しく染み入ってきた。

 惠姫は口を開きかけたが、その口から言葉は出なかった。

「姫・・・まだ口が、きけないのですか・・・」

 惠姫はただうなずくことしかできなかった。

 孔明は、惠姫の髪が腰ほどの長さがあったはずなのに、背中までしかなくなっていることに気づいた。右足首にも、まだ包帯が巻かれている。

「姫・・・」

 孔明は思わず惠姫に手を伸ばしたが、その瞬間、惠姫は反射的にわずかに身を引いてしまった。もう会えぬと覚悟までした孔明に、また会えたことがただ嬉しくて忘れかけていたが・・・自分が孔明に言えぬ龐統の秘密のために出陣してきたことを、思い出したのだ。

 孔明は微笑を浮かべ、この上なく優しく言った。

「姫。もういいのですよ。私にはわかっています。あなたが何かを知っていて・・・それを私に言うまいとしていたことを。でも今のあなたからそれを聞き出そうと思うほど、私はひとでなしではありませんよ。・・・あなたが口がきけなくなるほどになってしまったと聞いて、心配して来ただけです。それにあなたのことを・・・尚姫しょうき様にも頼まれているのです」

 尚姫の名を聞いて、疑問の目を惠姫は孔明に向けた。

「尚姫様は・・・江東に連れ戻されてしまいましたが・・・、実はその直前に私は尚姫様に召されたのです。尚姫様は従軍したあなたのことをそれは心配していらして、私にあなたのことを、大丈夫だろうかとお尋ねになりました。私が惠姫様は人一倍気丈であり、戦の中にいてもきっと大丈夫ですとお答えすると、『それは惠姫が気丈に振る舞えるだけで、実際はそなたが思っているほど惠姫は強くない。そのことを忘れないでやって欲しい』と言われたのです」

 惠姫は、尚姫が自分のかなわぬ想いの相手がわかって、精一杯の気遣いをしてくれたのだということに気づいた。

「あなたが口がきけなくなってしまったのも、きっとそれが原因なのでしょう。・・・殿やまわりの人に心配をかけまいと、辛さや悲しさを出さないように、ずっとこらえていたのでしょう」

 口のきけない惠姫は孔明の言葉を聞きながら、あの炎の中での楊延ようえんの自害の瞬間を思い返し、唇と体が震え始めた。孔明はそれに気づくと、惠姫が泣けるように救陣から少し離れたところへ連れて行き、長袍ちょうほうの袖で隠れるように包み、そっと抱擁した。最初は声なく泣いていたが、しだいに嗚咽おえつの声が少しずつ出るようになった。


 しばらく泣いて惠姫が穏やかな表情になったのを見届けると、孔明が言った。

「声は、出るようになりましたね」

「・・・はい」

 泣きながらいつの間にか、惠姫は声を取り戻していた。

「では私は殿のところに参ります。姫、兵たちを大切に思うのと同じくらいには、ご自身のこともおいといなさいますように・・・」

『ありがとうございます・・・孔明様』

 孔明の後ろ姿に、惠姫は深く頭を下げた。


『天は私をまたあの方に・・・会わせて下さった・・・』

 今の惠姫は、孔明と同じ時に存在している、ただそのことだけで嬉しかった。天に感謝の祈りを捧げ、惠姫は改めて誓った。

『今一度の命を、ありがとうございます。これからは必ずや天命に従い授かった力を使い、玄徳げんとく様、孔明様のために、そして一族の供養のために巫女みことして働き尽くします・・・』

 孔明様は私を大切にして下さる。たとえ国作りの道具としてであっても、それで十二分に幸せだと思った。想う人の望む形で存在するのが本当の愛というもの・・・それは昔、亡き母が教えてくれたことだった。ただその時の惠姫は幼すぎて、その言葉の意味を理解してはいなかった。時がたってようやく母の言葉の意味を、その重さを、惠姫は理解したのだった。

 ・・・そして次に江東の尚姫の方角にも・・・惠姫は黙って深く礼をした。


 惠姫の声が出るようになったのを喜んで、劉備りゅうびは惠姫を抱き締めながら言った。

「ああ本当によかった、惠姫。思いのほか戦が長引いて、姫には随分辛い思いをさせてしまった。だがもう大丈夫だ。孔明たちも来てくれたことだし・・・きっとまもなくこの城を落とせるであろう」

 援軍が来たので劉備は楽観的だった。しかし凶星はまだ輝いており、惠姫の不安は消えなかった。


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