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第4章 入蜀 2

 火矢は救陣きゅうじんにつぎつぎと命中した。

初冬の山おろしにあおられ、火は勢いを得て燃え広がって行った。さわぎに気づいた惠姫けいきは、救陣を守っている惠姫の親衛隊長の関平かんぺいに、収容されている負傷兵の迅速な救出指示を出した。親衛隊の活躍で、炎が回る前にかなりの兵を救出することができた。

『あと少し・・・』

 惠姫がそう思ったとき突風が起き、燃えている隣の天幕の支柱が、惠姫のいる天幕の上に倒れた。惠姫は炎に包まれてしまった。

「惠姫様!」

 炎をかいくぐって、関平が惠姫を救出に来た。しかし惠姫はいっしょに炎に巻かれた負傷兵を、先に連れて逃げるよう命じた。

「これでは全員助かるのは無理です!姫だけでももうお逃げにならなくては・・・」

「負傷した兵を置いて、救陣副校尉きゅうじんふくこういが逃げることはできません。この兵たちが先です!」

「でも・・・それでは姫が助かりません!」

「私は自分で動けます。歩けないこの兵たちを早く!」

「しかし、姫!」

「命令です!逆らうことは許しません」

 仕方なく関平は負傷兵と戻った。

「必ずまた来ます!それまで姫、どうかご無事で・・・」


 関平の叫び声が、炎の向こうに遠ざかった。残されたのは先日の戦いで深手を負った楊延ようえん将軍と、付ききりでその世話をしていた惠姫、ただ二人となった。

 惠姫は楊延に肩を貸し、炎の中を歩いて逃げようとした。しかし楊延は応じない。

「・・・姫、私はもういい。姫だけで逃げて下され」

「何をおっしゃいます!将軍を置いてゆくわけには参りません」

「もういいのだ姫・・・私には分かっている。この怪我ではたとえ生き延びても、もはや戦に出ることはできぬ・・・。私を置いて、逃げて下され」

 武将にとって戦に出られないということは、耐え難い屈辱であった。楊延は自決を選び、刀をみずからの首筋に素早く当てた。

「将軍、何を・・・!」

「姫、殿にお役に立てず申し訳無いと・・・伝えて下され」

「楊延様・・・!」

 次の瞬間楊延は自害し、首から血を吹いて倒れた。惠姫は血しぶきを浴びながら泣き叫んだ。

「楊延様!楊延様!」


 救陣が炎に包まれて、惠姫がその中に取り残されていることを知った龐統ほうとうは、先頭の陣にいた趙雲ちょううんを呼びに馬を走らせた。

子龍しりゅう殿、頼む!何としても惠姫様を助け出してくれ!」

 そのころ救陣の外では、まだ出て来ない惠姫と楊延を案じて、胸が張り裂けそうな思いで劉備りゅうびが炎を見つめていた。何とか脱出してきた関平をはじめ、親衛隊の兵たちが救出に行こうとするのだが、炎の勢いはあまりにも強かった。そこへ龐統の命を受けた趙雲が、馬で走り込んで来た。

「だれか水を!」

 趙雲は馬ごと水を浴びると、もう無理だと制止する者を振り切って、燃え盛る炎の中に飛び込み、刀で炎を切り払いながら進んだ。

「惠姫様! 楊延殿!」


『・・・熱い・・・』

 見回しても、すべての方向から炎は確実に迫って来る。惠姫は覚悟を決めた。死ぬことは怖くなかった。両親や姉のもとへ行かれるのだから・・・。

玄徳げんとく様・・・。もったいなくも養女にして頂きましたのに、孝養を尽くせず・・・それどころか大切な将軍を見殺しにしてしまいました。親不孝を、お許し下さい・・・。楊延様、私が至らずに申し訳ございません。まもなく、ご一緒に参ります・・・』

 惠姫は静かに手を合わせ、目を閉じた。だがまぶたに浮かんだのは、両親ではなかった。

孔明こうめい様・・・』

 心の奥底に封印したはずの想い人、孔明の姿だった。

 ・・・だからこんなことになったのだ。天の神に心を捧げ切れなかったから、見放されてしまったのだ・・・。

『でも神よ、どうぞ最後の・・・最後の瞬間だけ、あの方を想うことを・・・お許しください・・・』

 まぶたの裏の孔明はこの上なく尊く、慕わしかった。

惠姫は込み上げてくるものを、唇と両手を震わせ、こらえていた。

心が、引きちぎられるようだった。

 そのとき孔明の幻が口を開き、自分の名を呼んだ気がした。

『惠姫様・・・』


「惠姫様っ!」

 突如現実味のある声が聞こえ、惠姫は我に返った。声の主は孔明ではなく、趙雲だった。趙雲は炎のまさに真ん中で、首から血を吹いて倒れ、刀を手にしたまますでに事切れている楊延と、血まみれの惠姫を捜し当てたのだった。一目で趙雲は事情を察した。

「惠姫様、早く馬へ!」

 趙雲の姿を認めるや否や、惠姫は楊延の手の刀にとび付き、自決しようと刃をかまえた。だが趙雲も素早かった。

「姫っ!何をなさるのです!」

 馬から飛び降りた趙雲は惠姫に覆いかぶさり、刀を持った手を上から押さえつけた。趙雲の力で押さえられては動きのとれるはずもないのに、惠姫はあらん限りの力で抵抗した。

「子龍様、私は楊延様を見殺しに致しました!それにこの炎で私を連れては、子龍様が危うくなります。もし子龍様にまで何かあれば、私はもはや玄徳様にあわせる顔がございません。どうか私をこのままに、早くお戻りください!」

 あくまでも惠姫は自死しようと抵抗をやめなかった。

「それでは趙雲も、ともにここで死にます」

 それは今の惠姫に対する最も効果的な言葉だった。惠姫は驚き、目をむいて趙雲を見上げた。

「なりません!子龍様は玄徳様の誰より大切な将軍、必ず玄徳様の元へお戻りください!」

「何をおっしゃる、姫!あなたこそご自身がどれほど殿のかけがえのない方か、お分かりにならないのですか!私はかつて殿の奥方を戦場で見殺しに致しました。ここでまた姫を失っては、私こそもはや生きて殿にお会いすることはかないません!姫が死なれるのなら、私も死にます」

 惠姫は趙雲の目を見た。辺りは炎が迫り緋色一色なのに、趙雲の瞳だけは静かに蒼く澄みきっていた。それは玄徳に対する一点の曇りもない、忠義の証であった。

 そしてもちろん惠姫は気づいていなかったが、趙雲から見る惠姫の瞳もまた、周りの騒ぎが嘘のように蒼く凪いでいた。

 その瞬間同じ思いが瞳を通じ、二人の心の底まで稲妻のように反響した。

『殿のために、何があっても決してこの人を失うわけにはいかない・・・』

 惠姫は手に込めていた力を抜いた。間髪をいれず趙雲が惠姫を抱き上げ、馬に飛び乗った。

「以前姫を長江からお救いしたように、今度も必ず助かって頂きます!」

 惠姫はやっとわかった。趙雲が現れたのは、あのときと同じ、まだ死んではならぬという天の意志だったのだ。そのとき惠姫はふと気づいて、自らの髪を素早くつかんだ。

「子龍様、これを切ってください」

「姫、それは・・・」

 混乱のなかで束ねていた紐が切れ、豊かな黒髪がほどけ落ちていたのだった。趙雲はためらった。

「この長さでは脱出のとき、炎が移って子龍様まで危なくなります。早く切って下さい!」

「では姫、御免を・・・」

 趙雲は惠姫の黒髪を一刀で切り落とすやいなや、馬の胴を思い切り蹴った。

「私にしっかりつかまっていて下さい!」

 二人は炎をくぐって脱出した。同時に惠姫のいた天幕は燃えて崩れ落ちた。趙雲も馬もやけどを負った。腕のなかの惠姫にも、炎がかすめた。


 趙雲が惠姫を抱いて炎から出てくると、見守っていた人々は胸をなでおろした。

「惠姫様だ!さすがは趙雲!」

 趙雲は惠姫を抱いたまま馬から降りた。趙雲に支えられながら、惠姫はまだ燃えている救陣を振り返り、手を合わせた。再び辛い涙がこみ上げてきた。

「楊延様・・・ 楊延様が・・・」

「姫、それは姫のせいでは・・・」

 趙雲が言いかけたとき、劉備が駆け寄って来た。惠姫は振り向いて叫んだ。

「お父様、惠姫は楊延様を見殺しに致しました・・・!楊延様を・・・申し訳ございません!」

「姫、もうおやめください。それは姫のせいでは・・・」

 重ねて趙雲は言おうとしたが、惠姫は泣きながら激しく首を横に振った。

「それにどうして、子龍様をおよこしになったのですか。私のせいで子龍様まで命を落としたら・・・」

 近づいてまじまじと血まみれの惠姫を見ると、劉備は仰天して叫んだ。

「惠姫!その血はいったい・・・!」

「私のではありません。私のせいで自害した・・・楊延将軍の血です・・・」

 劉備は趙雲から惠姫を受け取った。

「そうは言っても、姫もやけどを負っているではないか、呉普ごふ!」

 劉備は惠姫の手当をさせようとしたが、惠姫はあらがう仕草をした。

「私より、子龍様が先です!子龍様の方がひどいやけどを・・・」

「姫、趙雲は戦で怪我は慣れております。呉普殿、早く姫の手当を・・・」

 炎と、血しぶきと、焼け付く両肩の痛み・・・人々が叫び合う声の中、惠姫は劉備の腕の中で意識を失っていった。

「惠姫!」

 劉備は惠姫をしっかりと抱き締め、短くなってしまった髪をなでた。

『すまない姫。かわいそうに・・・そなたにこんなにも辛い思いをさせてしまった・・・』


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