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第3章 思慕 5

 城の奥では、萩の咲き始めた庭を見下ろしながら、惠姫けいき尚姫しょうきが久々にゆっくり語らっていた。

「こうして惠姫と話せるのは、久しぶりですね。そなたはいつも忙しく働いているゆえ。私が殿もそなたも出陣すると聞いて悲しんでいたら、士元しげん殿が出陣までそなたと過ごしたらよいと、言ってきてくれたのです」

 嬉しそうに話しかける尚姫に、惠姫は笑みを返した。しかし尚姫には、惠姫がいつになく気落ちしている様子が見て取れた。

「惠姫・・・どうしたのです。どんなときにも明るく穏やかなそなたが・・・こんな元気のない姫を見るのは、初めてです」

 惠姫は無理に笑顔を続けようとしていた。

「それは・・・母上様、阿斗あと様や、この荊州を離れて行くのですから・・・」

 しかし尚姫には、とてもそれだけの理由で人一倍気丈な惠姫が、このようになるとは思えなかった。

「それだけではないであろう。姫は何か・・・とても辛いことに耐えているように見える。こんなそなたを従軍させるなど・・・私は心配でなりませぬ」

 惠姫は尚姫が心底案じてくれているのがわかった。惠姫はその優しさに、心を許した。

「尚姫様・・・私は、罰を受けているのです。でも自分が悪いのですから、仕方ありません・・・」

惠姫の言い様に、尚姫は驚いた。

「何ですそれは。いったいそなたが・・・何をしたというのです」

 惠姫は尚姫をじっと見つめ、ゆっくり、悲しそうに語った。

「尚姫様・・・。私は巫女みこであるのに、神よりも・・・ある人を、好きになってしまいました。だから私は、天より罰を受け・・・その人と引き離されることになったのです」

 惠姫は尚姫だけに、ついに言わずがもなのことを打ち明けた。


 尚姫は彫りの深い大きな瞳を、さらに大きく見開いた。

「何と・・・そうだったのですか・・・。しかし惠姫、そなたほどの姫がいったい誰を・・・?」

 惠姫は何も答えなかった。惠姫があまりにも辛そうで、尚姫もそれ以上問うことはとてもできなかった。

「・・・すまなかった。もうこれ以上は聞きません」

「申し訳ございません。お気遣いありがとうございます・・・尚姫様」

「・・・しかし惠姫。そなたは女として生きることはかなわぬのですか。そなたほどのすばらしい姫に想われて、心動かぬ殿方などおらぬであろうに・・・」

「尚姫様、私はそんな・・・」

「いいえ、姫。そなたは何でも持っているではありませんか。月の仙女嫦娥じょうがのような清らかな美しさと、すぐれた内侍令ないしれいとしての聡明さと、人を魅きつける明るさと気丈さと・・・歌姫としても舞姫としても荊州一。そなたほどの姫を、私は今まで見たことがなかった」

 もう惠姫にねたみ心を持たなくなった尚姫は、思ったとおりの事を素直に言った。こんな惠姫が望んで、手に入らないものがあるとは思えなかった。

 惠姫は小さく嘆息した。

「尚姫様、それは違います。それらの才は、巫女としての私に天が貸して下さっているもの。本当の私は・・・清らかでも、たいした人間でもありません・・・」

「言っている意味がよくわからないが・・・どうであれ誰かを好きになったら、その人を本当に愛したのなら、もう巫女などどうでもいいではないか。その人に想いを伝えて・・・女として幸せになろうとしてもいいではありませんか」

「・・・それは、できません」

 尚姫にはわからなかった。

「なぜです・・・そなたがこんなになるまで。本当に愛しているのであろう、その人を・・・」

「愛したからこそ、できないのです。その人は私に・・・女として生きることを、望んでいないからです」

「その人の考えなど関係ない。好きだから、好きだと言うだけではありませんか」

「尚姫様・・・それはただの自己愛で、本当にその人を愛していることにはなりません。その人の望む形で存在するのが、本当の・・・愛情です・・・」

 尚姫はしばらく考え込んだ。今では劉備りゅうびを愛するようになった尚姫だったから・・・言われてみれば惠姫の言うことが正しく思えた。

「・・・では惠姫。そなたの想い人は、そなたを好きではないのですか。大事に思ってはくれないのですか。その人の望むそなたとは、何なのです?」

「大事にはしてくれます・・・でもそれはもとより女としてなどではありません。ひとつはそのひとの優しさゆえ・・・もうひとつは・・・おそらく私が役に立っているからです。今の私はその人にとって一つの、役に立つ道具のような存在でもあるのです。そう望まれているのです。だから私は・・・その望まれる姿でいるのです」

「惠姫・・・そなた・・・」

 尚姫にはその人が誰であるか分かってきていた。しかし惠姫のために、尚姫一人の胸の内に、永久に収めておくことにした。

「惠姫の気持ちが、分かって来た気がします。かつて私は兄孫権そんけんを、誰よりも愛していた。・・・その愛する兄に頼まれたから、一人荊州に嫁ぐことを決心したのです。・・・結局この戦世では、女は愛する者の道具でしかない・・・でもそれも、一つの愛の形だったのですね、惠姫」

 こうして二人はますます友情を深めた。もちろん惠姫は自分の過去すべてを話すことはできなかったが、そんなことは関係なく二人は無二の親友となっていった。

 だが別れの日は、もうそこまで来ていた。


 いよいよ明日は出陣という日になった。

 ずっと尚姫と奥で過ごしていた惠姫だったが、出陣前夜の酒宴に姿を見せないわけにはいかない。たいして時間がたったわけでもないのに、その席で惠姫はとても久しぶりに孔明こうめいの姿を見た気がした。しかし龐統ほうとうとの約束を守るべく、あえて側には近づかないようにしていた。

『明日になれば荊州を離れて・・・心惑わすこともなくなるのだから・・・』

 いつものように宴で舞を舞ったあと、ほてったほほを冷ますため惠姫は一人抜け出して、庭の池を見下ろす渡殿わたどのにやってきた。惠姫が出て行くのを見た孔明がそっとあとをつけてきたのに、惠姫は気づいていなかった。


「・・・惠姫様」

 呼吸が、止まるかに思えた。

惠姫はどうにか平静を保つと、ゆっくり声の方を振り向いた。

「・・・孔明様・・・」

 すぐ後ろに孔明は立っていた。こんなに間近にいると、心の封印が解けてしまいそうな気がして、惠姫は怖くなった。

 温かみのある慕わしい声が、話しかけてきた。

「姫に一つだけ・・・お訪ねしたいことがございます」

「・・・何でしょう」

「今回の姫の御出陣は・・・本当に姫の御意志なのですか?」

 惠姫の胸が早鐘を打った。

「もちろんです。・・・どういう・・・意味でしょうか・・・」

「私にはそう思えないのです。・・・いや、言い過ぎたかもしれません。姫の御意志もさることながら・・・誰か、他の人の意向も入っているのでは、ございませんか」

 惠姫は孔明の目を、まっすぐ見ていられなくなった。

「・・・そんな・・・」

 孔明はやはり龐統のやりようと、龐統が惠姫の出陣に味方したことが気になっていた。

「・・・たとえ孔明様でも・・・それ以上おっしゃることは・・・許しません」

 惠姫は公女となってから、その身分を盾にとるようなことは決してなかったが、今だけはそうするよりほかなかった。しかし孔明にはそのために、惠姫が何かを隠していることが確信できてしまった。孔明はそれを何としても知りたいと思った。だが目の前の惠姫は、いつもの気丈な惠姫とは別人のように痛々しい様子でさえあって、これ以上問い詰めることは、さすがに憚られた。

「・・・分かりました。失礼は、どうぞお許し下さい。陣中、御無事であらせられますよう。・・・姫は体が丈夫というわけではないのですから、どうか、ご無理をなさいませんように」

 一礼して、孔明は去って行った。

『孔明様、私を許して下さい・・・』

 惠姫は瞳のふちが涙でにじんでくるのを、懸命にこらえようとしていた。

 しかし顔を覆った指の間から、一すじだけしずくがこぼれて、池のおもてに小さな波紋を作った。


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