第3章 思慕 4
侍女が劉備に惠姫の訪れを告げた。
劉備は孔明、龐統と出陣に際する打ち合わせをしていたのを、小休止して惠姫を迎えた。
惠姫はもう、孔明と龐統の姿を見ても動じることはなかった。強い決意をたたえた鳶色の瞳が、劉備をまっすぐに見上げた。
「お父様、お願いがあって参りました」
「姫から願い事など、珍しいこともあるものだな。何だ、言ってごらん」
劉備は目を細めて愛娘を見た。
「今度の出陣に・・・どうぞ私を、お連れ下さい」
瞬時に劉備の柔らかい表情がひきつった。孔明も、そして龐統さえも驚いて惠姫を見つめた。
「惠姫、本気で言っているのか!」
「本気です。どうか私を、救陣にお加え下さい」
「惠姫・・・確かにそなたが救陣に加われば、多くの負傷兵が救われるかもしれない。しかし姫は大事な私の、たった一人の娘なのだ。その娘をわざわざ戦場に連れて行きたいと思う親が、どこにいるものか」
「お父様のお気持ちは、身にしみて有り難く思っております。でも私のことを本当に思って下さるなら、どうかわかっていただきとうございます。天が私に力を下さったのは、人々を一人でも多く救うため・・・ですからその力を兵たちのために使うのは、私に与えられた使命、天命なのです。・・・どうかお願いでございます。私を救陣にお加え下さい」
惠姫が平伏して顔を上げようとせず、涙を流さんばかりに懇願するので、劉備は困り果ててしまった。
「・・・どうしたものかな。龐統、孔明」
すかさず龐統が惠姫の味方をした。
「殿、姫のお気持ち、どうかわかってやって下さい。呉普殿もわが軍の兵たちも、本当は姫が救陣にいて下さることを、望んでいるのです。姫の働きは一補給部隊にも相当し、兵の補給の難しい益州行には、姫の力が必要です。私からもお願いします。わが軍のため、また姫のため、どうか姫に従軍をお許し下さい」
孔明は龐統が、惠姫の出陣に味方する真意が分かりかねた。
「確かに・・・姫が救陣に加わることは、軍にとって有益でしょう。それに姫のおっしゃることもわかります。しかし殿とて、姫をわざわざ危ない目に合わせるのは・・・お気掛かりなことでしょう・・・」
「それなら救陣の護衛兵の中に、独立した姫の親衛隊をお作りになれば、よろしいではありませんか」
黙って二人の軍師の言を聞いていた劉備が、再び惠姫に目を据えた。
「・・・決心は、固いのだな」
「はい」
惠姫はきっぱりと答えた。
「では、親衛隊を作ることを条件に、姫が救陣に加わることを許すとしよう。頼むぞ、惠姫」
「ありがとうございます、お父様。本当に、ありがとうございます」
惠姫は何度も拝礼し、礼を述べた。そして内心胸をなでおろした。
『これで士元様を裏切らずにすむ・・・』
惠姫は救陣副校尉に任じられ、惠姫の親衛隊が組織された。隊長は龐統の推薦で関平が、副隊長は孔明の推薦で馬謖が選ばれた。
孔明は心穏やかではなかった。どうも何か納得がいかないことが多い。特に龐統の出陣に対する異様なまでの熱意が気にかかる。しかも何だって突然惠姫が出陣など申し出たのだろう。確かに筋は通っているが・・・。惠姫の出陣に何か龐統が関わっているように思えるのだが、龐統に聞いたところでうまくかわされてしまうだろう。
『あまり気は進まないが、姫に聞いてみるしかないだろうか・・・』
孔明はそう思った。しかし出陣まであまり間もないのに、惠姫の姿を見かけない。孔明は劉備に尋ねた。
「近ごろ惠姫様をお見かけしませんが・・・出陣前というのに、いかがなされたのですか」
劉備が答える前に、横にいた龐統が笑いながら言った。
「孔明殿は心配症ですなあ。惠姫様はただ出陣まで、尚姫様と阿斗様のところにいらっしゃるだけだというのに・・・」
「そう言うな士元。孔明にとっては惠姫は大事な妹同然なのだ。従軍するので心配で仕方ないのだろう。孔明、私も惠姫も出陣するというので、尚姫も阿斗もすっかり嘆き悲しんでしまって・・・尚姫がどうしてもというので出陣までの間、奥で惠姫と過ごさせてやることにしたのだ」
何も気づいていない劉備が答えた。
孔明は小さく嘆息した。奥には孔明もおいそれと入って行くことはできない。これも龐統の差し金だったら・・・
「しかしそれでは・・・惠姫様は出陣のご準備や、なにより留守中の仕事の引き継ぎが、お出来にならないではありませんか」
「孔明殿。惠姫様がそんな要領の悪い方でないことは、そなたが一番よく知っておろう。それらはすべてもう指示済みだ。それに奥で惠姫様は遊んでいるわけではない。出陣に向けて、尚姫様から新しい馬の乗りこなしを習っておられるのだ」
出陣に際して惠姫は劉備と尚姫から、新たな馬を贈られていたのだった。
あまりにすべてうまくできすぎていて、孔明は腑に落ちぬまま黙るしかなかった。